江戸の子育てを理解するために、まず一つの事実から入る。子どもの死は日常だった。生まれた子のうち相当数が、大人になる前に死ぬ。これは不運な家に起きた悲劇ではなく、どの家にも起きうる、そしてしばしば起きたことである。この前提を置かないと、宮参りも七五三も、名付けの習俗も、間引きという重い事実も、すべて別のものに見えてしまう。感傷を先に置かず、まず数字と制度から見ていく。
組しくみ① どれだけの子が死んだのか — 数字には必ず幅がある
江戸時代の乳幼児死亡率について、まず断っておかなければならないことがある。全国的な出生・死亡の統計は存在しない。近代的な人口動態統計が始まるのは明治以降であり、江戸時代について分かることは、残された史料から推計したものに限られる。
その推計の中心にあるのが歴史人口学という分野である。速水融らが開拓した手法で、宗門改帳(宗門人別改帳)や寺の過去帳といった史料を、村単位・家単位で長期にわたって追跡し、人口の動きを復元する。人別改は本来、キリシタン統制と人の把握のための帳簿だが、毎年作られて家族の構成を記録したため、結果として世界的にも稀な長期の人口史料になった。
その研究から示される数値には、次のような特徴がある。
- 地域差が非常に大きい — 東北と西南日本、都市と農村で、死亡率も出生率もまったく異なる水準が出る。「江戸時代の日本の乳幼児死亡率は◯%」と一つの数字で言うことはできない。
- 時期差も大きい — 飢饉の年には子どもの死亡が跳ね上がる。天明(1782〜1787頃)や天保(1833〜1839頃)の飢饉期は、平常年の数字とまったく別物になる。
- 史料の性質上、過小に出やすい — 宗門改帳は年に一度作られるため、その間に生まれてすぐ死んだ子はそもそも帳面に載らない。したがって推計値は実際の乳児死亡率より低く出る傾向がある、と研究者自身が注意を促している。
そのうえで、しばしば示される目安を挙げれば、生まれた子のうち一歳になる前に死ぬ者が一割から二割程度、成人(十五歳前後)に達しない者が三割前後という水準の推計が、地域研究のいくつかで示されている。ただし前述の理由から、これらはいずれも幅を持った推計であって確定値ではない(確度★★)。
数字よりも実感に近いのは、「七つまでは神のうち」という言い回しかもしれない。七歳までの子はまだ神の側に属していて、こちらの世界の人間として定まっていない——という趣旨で紹介される俗諺である。成立時期も分布も特定しにくく、後世の解釈が重ねられている可能性もあるが(確度★★)、幼い子の生死が定まらないという感覚を伝える言葉として広く知られてきた。
組しくみ② 生まれる — 産婆、産室、そして名付け
出産は家の中で行われた。産科医が立ち会うのは特殊な例で、通常は産婆(取り上げ婆)が世話をする。産婆もまた医者と同じく免許を持たない。経験を積んだ近所の年配女性が務め、技術は口伝えで受け継がれた。
出産は「穢れ」を伴うものとされ、産室を別に設けたり、産後一定期間は忌みとして社寺参りや火の共有を避ける習俗が各地にあった。長屋では専用の産室など取れないので、部屋の一角を屏風で仕切ることになる。産後の女性が寝床に横たわらず、もたれかかって過ごす「座産」や「産の忌み」の作法も地域によって異なった(確度★★、地域差大)。
子が生まれてからの節目は細かい。
名付けにも、子の死と背中合わせの習俗が残っている。丈夫に育つようにと願って、いったん形式的に捨てたことにして拾い直し、「捨」「拾」といった字を名に入れる風習が各地にあった(確度★★、地域差大)。神仏に子を一度預けて返してもらう、という考え方である。「七つまでは神のうち」という言い回しと、同じ発想の系列にある。
組しくみ③ 七五三と宮参りは、なぜ節目ごとに行われたか
ここで、前節に並べた儀礼をもう一度別の角度から見る。なぜ節目が細かく刻まれているのか。
七日、一か月、百日、一年、三歳、五歳、七歳。この刻み方は、乳幼児が死ぬ確率が高い順に並んでいる。生後まもない時期が最も危なく、以後は年齢が上がるにつれて生存の見込みが上がっていく。つまりこれらの祝いは、成長の段階を祝う行事であると同時に、「まだ生きている」ことを社会に対して確認・登録する手続きでもあった。
とくに七歳の意味は大きい。「七つまでは神のうち」を字義通りに受け取れば、七歳の帯解を済ませて初めて、その子は共同体の正式な一員になる。実際、幼くして死んだ子は大人と同じ葬送を行わない、墓を別にする、といった扱いが各地に見られた(確度★★、地域差大)。共同体の成員としての線が、七歳前後に引かれていたことになる。
七五三が十一月十五日に行われるようになった由来については、五代将軍徳川綱吉の子・徳松の祝いに始まるという説が広く語られてきた。しかし確実な根拠は乏しく、俗説として扱うのが妥当である(確度★)。確かなのは、髪置・袴着・帯解という個別の通過儀礼が中世以来武家などにあり、それが江戸期を通じて町人層にも広がり、次第に十一月十五日という日付と「七五三」という括りに集約されていった、という流れのほうである(確度★★)。千歳飴が売られるようになるのも江戸期とされるが、起源の詳細には諸説ある(確度★)。
組しくみ④ 間引きと堕胎 — 記録に残らないことを、どう書くか
ここから重い話に入る。江戸時代には、生まれた子を育てずに死なせる間引きと、生まれる前に妊娠を絶つ堕胎が行われていた。これは事実である。だが実態と規模については、断定できることが極めて少ない。
断定できない理由は単純で、記録が残らないからである。間引きも堕胎も帳面に書かれない。宗門改帳に載る前に消える命は、そもそも数えようがない。だから「江戸時代に間引きは何件あったか」という問いには、原理的に答えが出ない。研究者は間接的な手がかり——男女比の不自然な偏り、出生間隔の異常な長さ、藩の禁令や施策の存在——から推測するが、いずれも推測の域を出ない(確度★)。
それでも確実に言えることがいくつかある。
- 諸藩が禁令と対策を出した — 仙台藩、水戸藩、会津藩をはじめ、東北・関東の諸藩は18世紀後半から19世紀にかけて、間引きを禁じる触を出し、あわせて赤子養育仕法と呼ばれる救済策を実施した。妊娠の届出を求め、出産した貧しい家に養育費(子育て金)や米を給付する仕組みである。禁令だけでなく給付を伴った点が重要で、藩の側が「貧しさが原因である」と認識していたことを示す。
- 藩が対策を打った動機は、人口減による年貢収入の減少にもあった — 人道的な理由だけではない。百姓が減れば田が荒れ、年貢が減る。人口は藩財政の基盤だった。
- 戒めの絵が伝わっている — 北関東などの寺社には、間引きを戒める図(子返しの絵馬・絵図)が奉納された例が伝わる。禁令と並行して、宗教的な戒めからも抑止が試みられていた。
- 堕胎を業とする者がいた — 「中条流」を称する堕胎の医者が町で看板を出していた。取り締まりの触が出されることもあったが、根絶されてはいない。
間引きが行われた理由として挙げられるのは、貧困、飢饉、家の相続戦略(分割すれば持たない土地を守るため子の数を抑える)、そして生まれた子の性別などである。ただし、どの理由がどれだけの比重を占めたかを数量的に示す史料は無い(確度★)。
ここで避けるべきは二つの単純化である。一つは「江戸の農村では間引きが当たり前だった」と誇張すること。もう一つは「日本の伝統的家族は子を大切にしてきた」と美化して、事実を無かったことにすること。どちらも史料の裏付けを欠く。事実として言えるのは、間引きと堕胎が行われ、藩がそれを問題として認識し、禁令と給付の両方で対応した、ということまでである。
関連して、捨て子も都市の問題だった。幕府は捨て子を禁じるとともに、捨て子を見つけた場合の扱いを定め、発見された町や地主に養育の責任を負わせる触を繰り返し出している。育てられない者が子を手放し、その子を町が引き取るという回路が、制度として存在したことになる(確度★★)。
組しくみ⑤ 育児の知識 — 育児書はすでにあった
江戸時代には、育児と教育の指南書が刊行され、読まれていた。文字が読める層が厚かったことの副産物である。
貝原益軒が宝永7年(1710)に著した『和俗童子訓』は、子どもの教育について年齢を追って説いた書で、幼少期からの躾、読書の順序、女子の教育などに及ぶ。同じ益軒の『養生訓』(正徳3年・1713)と合わせて、身体と教育の両面から生き方を説く書として広く読まれた。
より医学寄りのものとしては、香月牛山の『小児必用養育草』(正徳4年・1714)がある。乳児の育て方、乳のやり方、病気への対処などを具体的に記した小児の養育書で、当時の小児医療と育児の知識水準を示す資料になっている。
これらの書物の内容には、現代医学から見て誤りも多く含まれる。だが重要なのは、育児が「教わるもの」として書物になっていたという事実のほうである。近所の年寄りの口伝えだけでなく、印刷された知識が流通していた。貸本屋が本を運び、寺子屋が読める人を増やしていた社会の姿がここにも現れる。
もっとも、これらの書を実際に手にしたのは商家や富裕な農家の層が中心で、裏長屋の日雇いの家に育児書があったとは考えにくい。知識の流通にも階層差があった(確度★★)。
組しくみ⑥ 学ぶ年齢、働く年齢 — 子ども時代はいつ終わるか
生き延びた子は、やがて学び、そして働き始める。その年齢は現代よりずっと早い。
つまり、江戸の子どもは十歳前後で家を出て働き始めることが珍しくなかった。現代の感覚では小学校四年生の年齢である。奉公は労働であると同時に、住み込みで技能と行儀を身につける教育でもあり、実家にとっては口減らしでもあった。三つの機能が分かちがたく重なっている。
ただし、江戸の子どもが働くだけだったわけではない。凧、独楽、羽根つき、竹馬、おはじき、貝合わせ。玩具を売る商いが成立し、錦絵には子どもの遊ぶ姿が繰り返し描かれた。花見や祭りには子どもが加わり、寺子屋にも遊びの時間があった。子ども時代が存在しなかったのではなく、短かったというのが正確である。
今江戸と今 — 「子どもを大事にする社会」という評価を検証する
幕末に来日した欧米人が、日本人が子どもをよく可愛がると記した——という話は、江戸の子育てを語るときに繰り返し引かれる。実際、そうした記述は複数の来日記録に見られる。だがこの評価をそのまま「江戸は子どもに優しい社会だった」と受け取ることには、いくつも留保が要る。
第一に、観察者は外国人であり、比較の基準は当時の欧米社会である。19世紀のヨーロッパの都市には、鞭を用いた躾、工場での児童労働、里子先での高い乳児死亡率があった。その基準から見て日本が優しく見えた、という相対的な評価であって、絶対的な評価ではない。
第二に、彼らが見たのは主に都市の、しかも路上の光景である。子守に背負われた子、遊ぶ子ども、祭りの賑わい。飢饉の村で何が起きていたかは、街道筋を通る旅行者の視界には入りにくい。
第三に、可愛がることと、育て切れることは別である。愛情の有無ではなく、余力の有無が子の生死を左右した。間引きの記録に見えるのは冷酷さではなく、多くの場合、食わせられないという計算である。
現代と比べたときに決定的に違うのは、子どもを育てる責任が誰にあったかである。江戸では、それは家と町と村にあった。捨て子を拾えば町が育て、貧しい家には藩が養育費を出し、奉公に出れば主家が食わせる。国家が個人を直接支える回路は無く、代わりに中間の共同体が受け皿を務めていた。現代の児童手当や保育、義務教育、母子保健は、この受け皿を制度に置き換えたものだといえる。置き換わったからこそ、共同体から外れた家庭が制度に届かないとき、支えが無くなるという新しい問題も生じている。
史同じころ、世界では — 高い乳幼児死亡率は共通の条件だった
子どもがよく死ぬ社会は、江戸だけではなかった。18〜19世紀のヨーロッパも、同じ条件の下にあった。
ロンドンでは1741年、船長トマス・コーラムの尽力でファウンドリング・ホスピタル(捨て子養育院)が開設された。捨て子・棄児が都市に溢れていたことへの対応である。入所を求める者が定員を大きく上回り、くじによって受け入れを決めた時期があったことも知られている。それでも施設内の乳幼児死亡率は高かった。
フランスの都市では、生まれた子を農村の乳母(nourrice)に預けて育てさせる里子の習慣が広く行われた。母親が働くため、あるいは慣習として。だが遠隔地に預けられた乳児の死亡率は高く、18世紀後半にはこれが社会問題として論じられている。「子を手放す」という選択が、日本にもヨーロッパにも別の形で存在したことになる。
そして産業革命期のイギリスでは、工場と炭鉱で子どもが働いた。1833年の工場法をはじめとする一連の立法が、児童労働の年齢と時間を段階的に制限していくが、それはつまり、それ以前には幼い子が長時間働いていたということである。産業革命の現場で、江戸の丁稚奉公とは比較にならない過酷さの労働が行われていた。
乳幼児死亡率が本格的に下がるのは、洋の東西を問わず、上下水道の整備、細菌説の確立、ワクチンの普及といった19世紀後半以降の変化を待たなければならない。子どもがめったに死ななくなったのは、人類史の中では最近のことである。
亜アジアのいま — 死亡率は下がり、子守は残っている
現代のアジアにおける乳幼児死亡率は、20世紀後半から劇的に低下した。世界保健機関(WHO)と国連児童基金(UNICEF)が共同で公表する推計によれば、東アジア・東南アジアの多くの国で五歳未満児死亡率は出生千対で一桁から十台の水準まで下がっている。一方、南アジアや後発開発途上国では依然としてこれを大きく上回る国もあり、地域内の格差が大きい。江戸期の推計と比べれば、どの地域も桁違いに改善している。
下がった要因は、医学の高度化そのものよりも、安全な水、予防接種、栄養、出産時の介助といった基礎的な条件の改善が大きいとされる。江戸の育児に欠けていたのも、まさにこの部分だった。上水があった江戸の町でさえ、下水と汚物の処理、消毒の概念、感染症への理解は現代とまるで違う。
子守り奉公に相当する光景も、形を変えて残っている。家庭内労働や年少者の家事従事は、いまも各地で就学の妨げとして報告されており、とくに女児に偏る傾向が指摘される。幼い姉が幼い弟妹を背負うという構図は、江戸の絵に描かれたものと同じである。制度が学校を用意しても、家の事情がそこへ行かせないという問題は、時代と地域を越えて反復している。
報広告と評判 — 子どもは商売の対象でもあった
江戸の出版と商売は、子どもという市場を確かに見ていた。
まず玩具である。凧、独楽、面、張り子、雛人形、幟。節句が来れば専門の市が立ち、季節商品として売られた。看板を出す玩具屋があり、縁日には露天が並ぶ。子どもの祝いは、そのまま消費の機会だった。
次に本と絵である。子ども向けの絵入り読物である赤本に始まり、黒本・青本・黄表紙へと続く草双紙の系譜は、もともと子ども向けの絵本から出発したものだった。錦絵には、玩具絵・組上絵(切り抜いて組み立てる紙細工)といった、子どもが遊ぶための版画も多く刷られている。
そして薬である。小児向けの売薬——疳の虫を鎮めるとされる薬などは、引札と袋の効能書きで盛んに宣伝された。子どもが死にやすい社会では、子ども向けの薬がよく売れる。効能の当否とは別に、これは需要の構造をそのまま反映している。
最後に、寺子屋の師匠もまた評判で選ばれた。あの師匠は手が早い、あの師匠は字が上手い、あの家は月謝を無理に取らない。医者を選ぶのと同じく、井戸端の噂が唯一の格付けだった。子どもをどこに預けるかという判断もまた、制度ではなく評判に支えられていた。
出典・確度
- 江戸時代について全国的な出生・死亡統計が存在せず、人口動態は宗門改帳・過去帳等からの推計に依ること — 歴史人口学の前提として定説。速水融らによる宗門改帳分析の手法を含む ★★★ [A: 定説]
- 乳幼児死亡率の推計(一歳未満で一〜二割程度、成人前に三割前後) — 地域研究で示される目安であり、地域・時期による差が非常に大きく、宗門改帳の性格上、乳児死亡は過小に記録される。単一の数値として扱うことはできない ★★ [B: 推計・幅あり]
- 宗門人別改帳の性格と、それが長期人口史料となったこと — 近世史の定説。原本類は各地の文書館・国立公文書館、国立歴史民俗博物館等で扱われる ★★★ [A: 定説・公的機関]
- 現在の日本の乳児死亡率(出生千対2を下回る水準) — 厚生労働省「人口動態統計」。年により小幅に変動する ★★★ [A: 公的統計]
- 「七つまでは神のうち」 — 俗諺として広く紹介されるが、成立時期・分布は特定しがたく、後世の解釈が加わっている可能性がある ★★ [B: 俗諺]
- お七夜・宮参り(男児31日目/女児32〜33日目)・食い初め(百日)・初節句という通過儀礼の体系 — 民俗として広く報告される。日数・作法の地域差が非常に大きい ★★ [B: 民俗・地域差大]
- 七五三の内訳(三歳の髪置・五歳の袴着・七歳の帯解)と、江戸期を通じて町人層に広まったこと — 民俗・風俗史の定説。個別の儀礼は中世以来のもの ★★ [B: 定説だが成立過程に幅]
- 七五三の11月15日という日付が徳川綱吉の子・徳松の祝いに由来するという説 — 広く語られるが確実な根拠を欠く俗説として扱うべきもの。千歳飴の起源も諸説ある ★ [C: 俗説]
- 「捨」「拾」など、いったん捨てて拾い直す形式をとる名付けの習俗 — 民俗として各地で報告されるが、地域差が大きい ★★ [B: 民俗・地域差大]
- 幼くして死んだ子を大人と異なる形で葬る習俗 — 民俗として報告されるが、地域により大きく異なる ★★ [B: 民俗・地域差大]
- 間引き・堕胎が行われたこと、およびその規模が史料上確定できないこと — 前者は定説、後者は史料の性格上避けられない限界。件数・比率を示す数値はいずれも推測である ★ [C: 事実は定説/規模は不確定]
- 諸藩(仙台藩・水戸藩・会津藩など)の間引き禁止令と赤子養育仕法(妊娠届出・子育て金の給付) — 近世史の定説。関係文書は各県の文書館・国立公文書館等で扱われる。施策の内容・時期は藩ごとに異なる ★★★ [A: 定説]
- 北関東などに伝わる間引きを戒める絵図・絵馬 — 民俗資料として国立歴史民俗博物館ほかで紹介される。伝来する点数は限られ、分布の一般化はできない ★★ [B: 資料は実在/一般化に留保]
- 「中条流」を称する堕胎業と、それに対する幕府の取り締まり — 近世風俗史で扱われる。実態の規模は不明 ★★ [B: 二次資料]
- 幕府による捨て子の禁止と、発見した町・地主に養育責任を負わせた触 — 近世法制史で扱われる。触の年次・文言は複数あり、運用も一様でない ★★ [B: 二次資料・複数の触]
- 貝原益軒『和俗童子訓』宝永7年(1710)刊 — 刊本は国立国会図書館デジタルコレクションで公開 ★★★ [S: 一次史料]
- 香月牛山『小児必用養育草』正徳4年(1714)刊 — 近世の代表的な小児養育書。刊本はNDLデジタルコレクション等で確認できる ★★★ [S: 一次史料]
- 寺子屋への入門年齢が数え6〜7歳前後であったこと — 教育史の定説(本サイト寺子屋と同水準) ★★★ [A: 定説]
- 商家の丁稚奉公が10歳前後で始まったこと、職人の弟子入り、年季奉公の構造 — 近世社会史の定説。ただし開始年齢・年季の長さは業種・店・地域で幅がある ★★ [B: 定説だが幅あり]
- 子守り奉公(年少の女児が住み込みで子守として働き、給金より食事と仕着せが主だったこと) — 近世〜近代の民俗・社会史で広く報告される。金額水準を示す確かな一次史料は乏しい ★★ [B: 二次資料・数値は不確定]
- 元服(男子15歳前後で前髪を落とし幼名を改める)とお歯黒・眉剃りの習俗 — 定説だが、年齢・作法は身分と地域で差がある ★★ [B: 定説だが差が大きい]
- 幕末来日欧米人が日本人の子ども好きを記した記録 — 複数の来日記録に存在する。ただし比較の基準が当時の欧米社会であり、観察範囲も都市の路上に偏る点に留保が要る ★★ [B: 記録は実在/評価に留保]
- ロンドンのファウンドリング・ホスピタル(1741年設立、トマス・コーラム) — イギリス社会史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 18世紀フランスにおける乳母への里子の慣行と、その高い乳児死亡率 — ヨーロッパ社会史の定説。地域・階層による差がある ★★★ [A: 定説]
- イギリス産業革命期の児童労働と1833年工場法以降の規制 — 定説 ★★★ [A: 定説]
- 現代アジアの五歳未満児死亡率と地域格差 — 世界保健機関(WHO)および国連児童基金(UNICEF)の共同推計に基づく。数値は毎年更新される ★★★ [A: 国際機関]
- 赤本・黒本・青本・黄表紙という草双紙の系譜が子ども向け絵本に発するとされること、玩具絵・組上絵の存在 — 出版史・浮世絵史の定説(本サイト戯作・錦絵と同水準) ★★ [B: 定説だが起源に諸説]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。