江戸の町を歩くと、軒下から巨大な鋏がぶら下がり、傘が開いたまま吊られ、櫛や眼鏡の模型が突き出していた。薬種屋の店先には薬研をかたどった板が掛かる。これらは装飾ではない。文字が読めない人にも「ここは何の店か」を一瞬で伝えるための装置だった。看板と暖簾は、江戸の商業を成り立たせた視覚言語である。
組しくみ — 実物を掲げる、という発想
江戸の看板を分類すると、まず素材と形による三つの型に分かれる。ひとつは実物看板(品物看板)で、扱う品そのものを軒下に吊るす。傘屋は傘を開いたまま掛け、刃物屋は鋏を、鏡屋は鏡を、麻苧屋は麻の束を下げた。次が容器看板。酢屋・味噌屋・醤油屋・油屋のように中身を直接見せられない商売は、樽や徳利の形をかたどった板を掲げた。三つめが模型看板で、足袋屋や蝋燭屋のように商品が小さくて遠目に分からない場合、実物の何倍にも誇張した模型をつくって掲げた。秋田県立博物館の看板展示でも、実物看板・模型看板・絵看板という区分が用いられている。
掲げ方にも型がある。屋根の上に大きく据えて遠くから見せる屋根看板、軒や柱に吊るす掛看板、店先の路上に立てて通行人の足を止める置看板(立看板)、そして通りに直角に突き出して横から歩いてくる人にも見える袖看板。それぞれ「どの距離の誰に見せるか」が違う。屋根看板は町の遠景に効き、袖看板は通りを歩く人に効き、置看板は店の前で立ち止まらせる。江戸の商家は、この三つの距離を意識して看板を組み合わせていた。
もっとも、これは「江戸の人が字を読めなかった」という話ではない。寺子屋の普及で読み書きのできる層は厚かった(寺子屋)。だが読める人と読めない人が同じ通りを歩き、同じ店の前を通る。誰が通っても通じる印を出しておくことが、商売として合理的だったのである。江戸後期から昭和初期にかけては、識字層の拡大とともに絵看板・文字看板が増えていくが、実物看板が消えたわけではなく、両者は長く併存した。
今江戸と今 — 暖簾はロゴだった
看板が「業種」を示すのに対し、暖簾が示したのは「どこの店か」だった。屋号や家紋を白く染め抜いた布が入口に垂れ、風で揺れる。三井の越後屋なら「丸に井桁三」。その印を見れば、駿河町の本店でも他所の出店でも、同じ店だと分かる。屋号を反復して視認させるという意味で、暖簾は現代のロゴマークとまったく同じ機能を果たしていた。
暖簾はまた、営業時間の表示でもあった。朝に暖簾を出し、夜に仕舞う。「暖簾を下ろす」が閉店を、転じて廃業を意味するのはここから来ている。開いているか閉じているかを、遠くからでも一目で伝える——これも文字に頼らない情報設計である。
現代の街を見渡せば、江戸の看板の子孫はいたるところにいる。理髪店の赤青白のサインポール、質屋の三つ玉、蕎麦屋の出前箱、そして駅や空港のピクトグラム。いずれも「言語を介さずに機能を伝える」という同じ課題への解答だ。チェーン店が全国の店舗に同じロゴを掲げるのも、越後屋が駿河町の通りの両側に同じ暖簾を並べたのと、発想としては地続きである。
史同じころ、世界では — 吊り看板の街と、その規制
同じ課題は世界中の都市が抱えていた。近世のロンドンやパリでも、街路に番地が振られる以前は、店や宿は絵を描いた看板を通りに突き出して自らを示していた。パン屋のプレッツェル、宿屋の動物、質屋の三つの金の玉。住所が「赤い獅子の看板の隣」といった形で語られる世界である。日本の実物看板と発想は同じで、読めるかどうかに関わらず通じる印を掲げていた。
ただしこの方式は都市が過密になると破綻する。ロンドンでは18世紀後半、通りに突き出した重い吊り看板が落下したり視界を塞いだりすることが問題となり、看板を壁面に取り付けさせ、代わりに家屋へ番号を振る方向へ制度が動いたとされる(★★)。絵の看板から、番地と文字による住所へ。江戸もまた、明治以降に町名地番の整備が進むにつれて、同じ移行をたどることになる。看板の歴史は、都市が住所という抽象を獲得していく過程と重なっている。
亜アジアのいま — 突き出し看板の密度
香港の繁華街では、いまも巨大な袖看板が通りの上空に何層も重なって突き出している。江戸の袖看板を都市規模に拡大したような光景で、歩行者は上を見ながら店を探す。ハノイの旧市街は通りごとに扱う品が決まっており、通りの名前がそのまま業種を表す——鋏の店が並ぶ通り、紙の店が並ぶ通り。看板よりも先に「通り自体が分類」になっている点は、江戸の職人町・商人町の編成に近い。
バンコクやヤンゴンの市場では、商品そのものを店先に山積みし、吊るし、掲げる。実物が看板を兼ねる、もっとも古い形式が現役で機能している。江戸の実物看板がどう見えたかを想像するには、これらの街の店先が最良の参照先である。
報広告と評判 — 「暖簾に傷がつく」まで
暖簾の色が業種を示したという話は、広く語られている。商家一般は藍・紺の暖簾を用い、薬種屋や菓子屋・食物屋は白地に墨書きした暖簾を掛けた、といった慣習である。白地については、砂糖を扱う菓子商のイメージから、あるいは砂糖が薬として扱われたことから薬種商にも広がった、といった説明がなされる。柿色の暖簾についても、格式ある店だけが用いたとする説明が見られるが、その「格式」の中身は資料によって異なり、遊里の高級な店や料亭に結びつける記述もある。色と業種の対応は地域と時代で相当に振れるため、断定はできない(★★)。確かなのは、色と文字の組み合わせが記号として機能していたこと、そして寛永〜延宝ごろには屋号・業種を染め抜いた暖簾が広告媒体として定着していったとされることである。
暖簾分けは、単なる温情ではなく制度だった。修業を終えた者に屋号と得意先の一部を分け与え、本家と分家の関係を結ぶ。屋号という記号の信用を共有財産として運用するこの仕組みは、フランチャイズの原型と呼んで差し支えない。損料屋のように「貸したものが返ってくる」信用の上に立つ商売では、派手な広告よりも暖簾と口コミが効いた。人物の系譜をたどると、暖簾分けで生まれた店が江戸の商家の厚みを作っていたことが見えてくる(人物図鑑)。
業種ごとの専用記号もあった。両替商は分銅(天秤で重さを量る錘)をかたどった看板を掲げ、金銀を量って扱う商売であることを示した。分銅の形は、いまも地図記号の「銀行」として生き残っている——記号が三百年を越えて残った稀な例である。米屋、質屋、湯屋にもそれぞれの目印があり、町を歩けば業種の分布が視覚的に読み取れた。
そして看板・暖簾は、単独ではなく他の広告装置と組み合わされて働いた。刷り物を配る引札、事件を売り歩く瓦版、役者や流行を描く錦絵、遊里の案内を担う細見(吉原)。紙の媒体が流行を運び、店先の看板と暖簾がそれを受け止める。江戸の広告は、この二層構造で回っていた。
出典・確度
- 秋田県立博物館「古イイ看板」— 実物看板・容器看板・模型看板・絵看板という看板の分類、および傘屋・麻苧屋・鏡屋・足袋屋・蝋燭屋などの具体例 ★★★ [A: 公立博物館の展示解説]
- 三井文庫「史料が語る三井のあゆみ」・三井広報委員会「駿河町の発展」— 越後屋の「丸に井桁三」の暖簾と駿河町の店構え ★★★ [A: 当事者系アーカイブ機関]
- 歌川広重『東都 駿河町』(天保期頃)— ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)蔵。画像は Wikimedia Commons のパブリックドメイン版を使用 ★★★ [A: 美術館所蔵の一次資料]
- 暖簾の意味・歴史・色の決めごと(業界解説)・水野染工場「暖簾とは」— 藍・紺=商家一般、白地=薬種・菓子・食物、柿色=格式ある店、寛永〜延宝ごろに屋号染め抜きの暖簾が広告媒体化、とされる慣習。ただし色と業種の対応は資料によって記述が異なり、地域差・時代差が大きい。本稿では断定していない ★★ [C: 業界・工房系の解説]
- 「暖簾を分ける」「暖簾に傷がつく」「暖簾を下ろす」が店の信用・営業そのものを指す語として定着した経緯 — 国語辞典類および商家研究で広く記述される。個別商家における暖簾分け契約の原典確認は継続中 ★★ [B: 二次資料]
- 両替商の分銅看板 — 分銅は金銀を量る商売の標識であり、現在の地図記号「銀行」に連続するとされる。江戸期の掲出実態については店ごとの差が大きい ★★ [B: 二次資料]
- 18世紀ロンドンにおける吊り看板の規制と家屋番号制への移行 — 都市史の概説で広く言及されるが、条例の年次と適用範囲は資料により異同がある ★★ [B: 二次資料]