錦絵は、一人の天才が描いた絵ではない。企画と資金を出す版元、下絵を描く絵師、版木を彫る彫師、色を摺り重ねる摺師——四つの職能が一枚の紙の上で組み上げた共同制作物である。そして「見当」というごく単純な位置合わせの仕掛けが、色を何度も正確に重ねることを可能にした。技術と分業と資本が噛み合った結果、江戸の町には十数色の色彩を持つ絵が、蕎麦一杯ほどの値段で流通することになる。世界史的に見て、これは異様な出来事だった。
組しくみ — 絵暦の遊びから、多色摺の技術へ
木版で絵を摺ること自体は、錦絵よりずっと古い。17世紀の墨一色の墨摺絵に始まり、摺り上がった絵に筆で色を差す丹絵・紅絵を経て、18世紀前半には二、三色を版で摺る紅摺絵が現れる。しかし色数は限られ、絵は依然として「線の絵に色を添えたもの」だった。
転機とされるのが明和2年(1765)頃である。旗本や富裕な町人ら好事家のあいだで、その年の月の大小を絵に隠して仕込んだ絵暦(大小暦)を作り、互いに交換して見せ合う遊びが流行した。金に糸目をつけない私家版であるから、色数も紙も惜しまない。この贅沢な実験の場から、多色を精密に摺り重ねる技法が一気に洗練され、鈴木春信らの手で商品としての多色摺版画が成立した——というのが広く語られる筋書きである。錦のように美しいことから「東錦絵」「錦絵」と呼ばれた。
ただしこの成立の物語には注意が要る。絵暦交換会が触媒になったという説明は多くの解説で採られているが、技術的な蓄積は明和以前から積み上がっており、春信一人の功績に帰す語り方は単純化を含む。「明和2年頃、絵暦交換会を契機に成立したとされる」——江戸大全ではこの確度(★★)で扱う。
組しくみ — 版元・絵師・彫師・摺師、四つの職能
錦絵を理解する最短の道は、誰が何をしたかを分けて見ることである。
版元(はんもと)。出版者であり、現代でいえばプロデューサーにあたる。何を、誰に描かせ、いくらで、何枚摺るかを決め、版木代・紙代・絵具代・職人の工賃をすべて負担し、売れなければ損をかぶる。企画とリスクの引き受け手である。絵の隅に押される版元の印は、そのまま出版元のブランドだった。『奴江戸兵衛』を出した蔦屋重三郎のように、無名の絵師を売り出して市場を動かす版元も現れる。錦絵史に絵師の名が並ぶのは事実だが、その裏で誰を起用するかを決めていたのは版元である。
絵師(えし)。版元の企画を受けて版下絵を描く。薄い紙に墨で線を描いた原画で、これはこのあと版木に貼られて彫られてしまうため、原則として残らない。絵師は色の指定も行うが、実際にどう摺り出すかは摺師の腕に委ねる部分が大きい。
彫師(ほりし)。版下絵を裏返して山桜などの版木に貼り付け、線の残る部分以外を彫り落として主版(おもはん)を作る。髪の生え際の毛割(けわり)と呼ばれる極細の線は、彫師の技量が最も現れるところである。主版から墨摺の校合摺(きょうごうずり)を何枚も取り、その上に色の指示を入れて、色ごとの色版を彫っていく。一枚の錦絵に十数枚の版木が使われることも珍しくない。
摺師(すりし)。版木に絵具を刷毛で置き、湿らせた紙を見当に合わせ、馬楝(ばれん)で背から擦って写し取る。色の薄い版から順に、色数の分だけこの工程を繰り返す。ぼかし、艶出し、空摺(からずり)、雲母摺(きらずり)といった表現は、絵師の指定というより摺師の手技によって生まれる。同じ版木でも、摺師が違えば別の絵になる。
組しくみ — 値段、ジャンル、そして改印という検閲
錦絵一枚の値段については、蕎麦一杯ほどだったという説明が広く行われる。夜鳴き蕎麦の代金がおおむね十六文とされることから、錦絵も十数文から数十文の幅だった、という筋である。ただしこれは時期・判型・摺りの手間・版元の格によって大きく変わり、上等な摺物や豪華な多色摺はもっと高い。単一の相場として語ることはできない(確度★★・諸説あり)。それでも要点は動かない——錦絵は、庶民が思いつきで買える価格帯のメディアだった。
売られたものは多岐にわたる。役者絵は歌舞伎の人気役者のブロマイドであり、舞台の宣伝物でもあった。美人画は吉原の花魁や町の評判娘を描き、そのまま流行の発信源になった。名所絵は旅と土地の風景を売り、旅行案内と土産の役を兼ねる。ほかに武者絵、戯画、相撲絵、花鳥画、そして幕末には時事を扱うものまで現れた。
これだけ売れるメディアを、幕府が放っておくはずがない。出版は仲間(同業組合)による自主検閲と幕府の統制の二重の網にかけられ、内容を検めた証として絵の中に改印(あらためいん)が押された。寛政の改革以降、「極」の字を彫った検閲印が押されるようになり、天保の改革期には町名主が検閲を担う体制へと変わる。改印は取締りの痕跡であると同時に、いま研究者が版行年を特定する手がかりにもなっている。
天保の改革(1841〜43)は、錦絵にとって最も厳しい季節だった。奢侈の禁止と風俗の取締りを掲げる改革は、天保13年(1842)に役者絵・遊女絵(美人画)の出版を禁じ、一枚あたりの色数や値段にも制限をかけたとされる。花形ジャンルを二つ同時に失った版元と絵師は、名所絵や武者絵、歴史画、戯画へと軸足を移した。歌川国芳が動物や庶民に化けさせた戯画で当てこすりを試みたのは、この抑圧への迂回である。規制が表現の形を変えた典型的な例といえる。改革の失速後、役者絵は復活するが、統制と出版のせめぎ合いは幕末まで続いた。
今江戸と今 — 制作委員会と印刷所と検閲印
錦絵の制作体制を現代の言葉に置き換えると、驚くほどそのまま通じる。
- 版元=プロデューサー/出版社 — 企画立案、資金調達、キャスティング、部数決定、販売、そして回収リスクの引き受け。役割の輪郭が現代の出版社・レーベルとほぼ一致する。
- 絵師=イラストレーター/アートディレクター — 版下絵は入稿データにあたる。ただし最終的な仕上がりの決定権は工程側にも分散していた。
- 彫師=製版 — 版下絵を印刷可能な形(版)に変換する工程。デジタル印刷における製版・データ処理に相当する。
- 摺師=印刷オペレーター — 色を重ねる順序、絵具の濃度、圧の掛け方で仕上がりが変わる。刷りの調整で品質が決まる構図は現代の印刷現場と同じである。
- 見当=トンボ(レジストレーションマーク) — 多色印刷で版ずれを防ぐための位置合わせ。原理は250年以上変わっていない。
- 改印=審査・レーティング — 出版前に内容を検め、通過の証を作品に表示する。映倫やレーティング表示の先祖にあたる仕組みである。
- 増摺=重版 — 売れ行きを見て追加生産する。版木という「型」を資産として持つビジネスの形が、そのまま出版業のモデルになった。
そして流通の側も現代的である。錦絵は絵草紙屋の店先に吊るされ、道行く人が立ち止まって選び、その場で買っていった。街頭で目を引く陳列と衝動買い——引札と看板や瓦版と並んで、錦絵は江戸の視覚メディア産業の中核をなしていた。
史同じころ、世界では — カラー印刷は「高い」ものだった
錦絵が成立した18世紀後半、ヨーロッパで色のついた版画といえば、銅版画に手彩色を施したものか、メゾチント・アクアチントなどによる少部数の高級品が中心だった。多色を版で重ねる試み(ル・ブロンの三色刷りなど)は18世紀前半から存在したが、コストが高く、大衆が日常的に買える価格帯に降りてくることはなかった。色は高価なもの——それが当時の常識である。
その常識に照らすと、江戸の状況は突出している。十数色を重ねた絵が、庶民の外食一回分に近い値段で街頭に並んでいた。石版印刷(リトグラフ)が1798年に発明され、ヨーロッパで多色石版によるポスターが街を彩るのは19世紀後半のこと。色刷りの大衆化において、江戸はおよそ一世紀先行していたと評価できる。
その差を生んだのは、個々の技術というより体制である。木版という比較的安価な版材、湿らせた和紙と馬楝という手作業の摺り、そして何より四者分業と版元資本という産業構造。職人が専業として生活できるだけの需要が江戸という百万都市にあり、その需要を回収する仕組みを版元が持っていた。技術は需要と資本があってはじめて量産に届く、というごく現代的な教訓がここにある。
亜アジアのいま — 版画の系譜と、いま彫る人・摺る人
木版印刷そのものは東アジアが古くから共有してきた技術である。中国では明清期に『十竹斎書画譜』などの多色木版(餖版〈とうはん〉)が高い水準に達し、蘇州の年画、天津の楊柳青年画のように、正月に貼る大衆向けの色刷り版画が広く流通した。朝鮮半島や東南アジアの華人社会にも、暦や吉祥図を刷る版画の文化がある。錦絵はその大きな系譜の一部でありながら、役者・遊女・名所という都市の消費対象を主題にした点で際立っていた。
いま、その技術は職人の数という点で危機にある。日本では彫師・摺師の後継者が限られ、伝統木版の工房は数えるほどしかない。国は木版画の技術を保存すべき対象として位置づけ、道具(馬楝の材料や版木用の山桜)の供給を含めた継承が課題になっている。中国でも木版年画は無形文化遺産として保護の対象であり、状況は似ている。
一方で、東アジアの都市ではポップカルチャーの版画・シルクスクリーン・リソグラフが若い作り手に再発見され、少部数の手仕事による印刷物が新しい市場を作っている。複製できるが完全に同一ではないという版画の性質は、無限に同じものが並ぶデジタルの時代にかえって価値を持ちはじめた。錦絵が二百六十年前に到達した「量産される手仕事」という地点に、いま別の角度から光が当たっている。
報広告と評判 — 舞台を売り、遊里を売り、やがて海を渡った
錦絵は、鑑賞物である前に広告だった。役者絵は次の興行へ客を呼び、美人画は吉原や水茶屋の評判を町へ運び、名所絵は旅と土産物を売った。買う側にとっては手元に置くグッズであり、売る側にとっては流通する宣伝媒体である。この二重性が錦絵の商売を支えていた。
そして錦絵は流行そのものを作った。役者が舞台でまとった柄、美人画に描かれた髪型や着こなしは、絵として複製されることで江戸中に伝播する。舞台や遊里という限られた場所で生まれた意匠が、紙一枚に乗って庶民の日常へ降りていく——複製メディアがファッションを全国化するという現代の構図が、すでに完成していた。
幕末から明治にかけて、この大衆商品は思わぬ形で海を渡る。開国後の交易のなかで大量の浮世絵が欧米へ流出し、パリやロンドンの美術家たちの目に触れた。慶応3年(1867)のパリ万国博覧会は日本の工芸と美術が広く紹介された機会として知られ、以後ジャポニスムと呼ばれる熱狂が広がる。マネ、ドガ、モネ、ホイッスラー、そしてゴッホ——大胆な構図、平坦な色面、輪郭線、斜めに切り取る画面、余白の使い方は、印象派とその周辺の画家たちに直接的な刺激を与えた。ゴッホが歌川広重の名所絵を油彩で模写しているのは、その影響の最も分かりやすい証拠である。
なお、浮世絵が陶磁器の緩衝材・包み紙としてヨーロッパに渡り、それが発見の端緒になったという逸話は非常に有名だが、逸話としての性格が強く、流出経路の全体を説明するものではない(確度★)。実際には、開港場での土産物としての購入、商社や外交官による組織的な収集、日本国内の売立てなど、複数の経路が重なっている。
いずれにせよ、結果は皮肉である。江戸の庶民が蕎麦一杯の値段で買っては捨てていた印刷物が、海を渡って西洋近代美術の転回点になった。大衆メディアとして設計されたことが、そのまま世界へ広がる力になったのである。
出典・確度
- 文化デジタルライブラリー(日本芸術文化振興会)— 役者絵・芝居と出版の関わり、天保の改革下の興行・出版統制に関する解説 ★★★ [A: 公的機関]
- 東京国立博物館ほか公立館の浮世絵コレクション解説 — 墨摺絵から紅摺絵、錦絵に至る技法の変遷、版下絵・主版・校合摺・色版の工程、見当の構造 ★★★ [A: 公的機関]
- 明和2年(1765)頃、絵暦(大小暦)の交換会を契機に鈴木春信らによって多色摺の錦絵が成立したとされること — 概説書・展示解説で広く採られる説明。技術的蓄積は明和以前からあり、春信個人の功績に帰す語り方は単純化を含む ★★ [B: 通説]
- 錦絵一枚の価格が蕎麦一杯(十六文)程度だったとされること — 広く引用される目安。時期・判型・摺りの手間・版元により幅が大きく、諸説あり。単一の相場として扱うことはできない ★★ [B: 通説・要検証]
- 改印(あらためいん)による出版統制と、天保13年(1842)の役者絵・遊女絵の出版禁止、色数・価格の制限 — 浮世絵研究で共通して述べられる。改印は版行年推定の手がかりとして利用される ★★★ [A: 定説]
- 「見当をつける」「見当違い」の語源が版木の見当にあるとされること — 広く紹介される語源説だが、語誌の裏づけは限定的 ★★ [B: 通説]
- 慶応3年(1867)パリ万国博覧会と、その前後に広がったジャポニスムが印象派周辺の画家に与えた影響 — 西洋美術史の定説。個々の画家への影響の程度には解釈の幅がある ★★★ [A: 定説]
- 浮世絵が陶磁器の包み紙として渡欧し発見されたという逸話 — 有名だが逸話としての性格が強く、流出経路の全体を説明しない ★ [通説・要検証]
- 中国の餖版による多色木版、蘇州・楊柳青の年画など東アジアの版画の系譜 — 美術史の概説で共通して述べられる ★★ [B: 二次資料]
- 東洲斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』(寛政6年〈1794〉、版元・蔦屋重三郎)— 図版はパブリックドメイン。画像: Wikimedia Commons ★★★ [S: 一次史料(画像)]