江戸時代の賭博は、御法度である。これは間違いない。幕府は繰り返し博奕を禁じ、罰した。ところが、その「繰り返し」こそが問題なのだ。一度で足りる禁令を、なぜ何度も出さなければならなかったのか。答えは単純である。守られなかったからだ。禁令の反復は、統治の強さの証拠ではなく、賭博が根絶できなかったことの証拠として読むべきものである。本記事は、この視点から江戸の賭けごとを見ていく。そしてもう一つ、避けて通れないことがある。博徒を任侠として美化しないことである。彼らを義理人情の人として描いたのは、後の講談と浪曲と映画であって、当時の記録ではない。
組しくみ① 禁令は何度も出た — その反復が意味すること
幕府の法体系において、博奕は明確に禁じられた行為である。寛保2年(1742)に成立した公事方御定書(いわゆる御定書百箇条)にも、博奕とその場を提供する行為に関する規定が含まれている。処罰は、犯行の態様、常習性、身分、関与の度合いによって異なり、単純な参加者と場を開いて利を得た者では扱いに差があった。刑の重さを一律に述べることはできない(確度★★)。
さらに幕府は、御定書とは別に、折々に触(ふれ)を出して博奕を禁じ、取り締まりを命じている。享保期にも、寛政期にも、天保期にも出ている。諸藩も同様に領内へ禁令を発した。
ここで冒頭の論点に戻る。法があるのに、なぜ触を繰り返す必要があるのか。行政の実務として考えれば理由は明快で、現場で守られていないからである。同じことは女髪結の禁令にも、奢侈禁止令にも、心中物の上演禁止にも当てはまる。江戸の法令史を読むときの基本的な作法として、繰り返し出された禁令は「その行為が広く行われていた」ことの傍証と見なすのが妥当である。
もう一つ、禁令の文面から読み取れることがある。禁止の対象が、単に「賭けること」ではなく、場を開くこと、宿を貸すこと、道具を売ることにまで及んでいる点である。これは幕府が、賭博を個人の悪癖ではなく組織的な営みとして認識していたことを示す。実際その通りで、後述するように、賭場は経営体だった。
組しくみ② 丁半博打 — 道具が少なくて済むということ
賽子(さいころ)を使う賭博の代表が丁半である。二個の賽を伏せた器の中で振り、出た目の合計が偶数(丁)か奇数(半)かを当てる。参加者は丁方と半方に分かれ、双方の賭け金が釣り合ったところで勝負が決まる。
この遊技が非合法の賭博に適していた理由は、道具が極端に少なくて済むことにある。賽が二個と、伏せる器と、金を置く布があればよい。すべて袂に入る。手入れが入れば道具を捨てて散ることができるし、場所も選ばない。空き家、寺の堂、山中の小屋、船の中。非合法の遊技は、非合法であるがゆえに軽装であることを求められる。
ただしここで一つ注意しておきたい。丁半博打の場の情景として広く知られている描写——中盆が声を張り、壺振りが肌脱ぎで賽を振り、丁方と半方が対座する——は、その多くが近代以降の任侠物語や映画によって定型化されたイメージである。江戸期の史料にそうした光景の詳細な記録が豊富にあるわけではない。賽を使う賭博が広く行われていたこと自体は確実だが、作法や役割名の細部をそのまま江戸の実態として語るのは慎重であるべきだ(確度★★)。
賽を使う賭博には他にも種類があり、目の数そのものを当てる形式や、複数の賽を用いる形式など、地域と時代で呼び名も方式も分かれた。統一されたルールブックがある世界ではない。
組しくみ③ かるたと花札 — 禁じられるたびに姿を変えた
札を使う賭博の系譜は、日本の遊技史のなかでもとりわけ入り組んでいる。整理しておく。
出発点は南蛮渡来のカルタである。十六世紀にポルトガル人がもたらしたトランプ状の札が、日本で天正かるたとして国産化された。「カルタ」という語自体がポルトガル語の carta に由来する。これが賭博に用いられ、やがてうんすんかるたなど札数を増やした派生が生まれる。
そして幕府はこれらを禁じた。すると禁じられた札に似ていない新しい札が作られる。図柄を花鳥に変え、賭博の道具に見えないようにする。この過程を経て成立したとされるのが花札である。十二か月それぞれに四枚、計四十八枚。松に鶴、梅に鶯、桜に幕、と季節を配した図柄は、一見すれば風雅な遊びに見える。
ただし、花札の成立時期と成立過程には諸説あり、確定していない。江戸中期以降に段階的に形成されたとされるが、いつ現在の形になったかを一次史料で押さえるのは難しい。「禁令を逃れるために図柄を変えた」という説明も、系統としてはもっともらしいが、個々の変遷を厳密に跡づけたものではない(確度★)。広く語られる由来を、確定した事実として書かないこと。
確実に言えるのは以下である。カルタ類が賭博の道具として用いられ、幕府がこれを禁じ、それでも札を用いる遊技は消えず、明治以降に花札が定着した——という大きな流れ。そして、禁止が遊技を消滅させるのではなく、変形させたという構造である。
札を使う賭博にはめくりと呼ばれる系統もあり、江戸後期には流行して禁令の対象となった。戯作や随筆に賭博の情景が現れることからも、都市の日常にこの種の遊技が浸透していたことが窺える(確度★★)。
組しくみ④ 富くじと影富 — 公認の賭けの裏に、非公認の賭けが立った
江戸には、幕府が正面から許可した賭けが一つだけあった。富くじである。詳しくは該当項に譲るが、要点はこうだ。寺社の堂塔修復費の調達という名目で寺社奉行の許可を得たもの(御免富)だけが合法だった。番号を書いた木札を箱に入れ、錐で突いて当たりを決める。公開の場で行われ、立会人がつく。
ここまでが表である。裏がある。
影富とは、公認の富くじの当選番号を対象にして、私的に金を賭ける行為である。富くじの札は高価で、庶民が丸ごと一枚買うのは容易でなかった。そこで、「今回の富で何番が当たるか」に少額を賭ける私設の賭けが立った。公認の抽選を、非公認の賭けが寄生的に利用したことになる。
影富の何が幕府にとって問題だったか。第一に、単純に賭博である。第二に、参加のハードルが低い。札を買う金がなくても賭けられるのだから、より広い層に及ぶ。第三に、公認事業である富くじの権威を、非合法の営みが利用している。幕府は影富を禁じる触を出したが、これもまた繰り返された(確度★★)。
そして最終的に、富くじそのものが天保13年(1842)に全面的に禁止された。天保の改革の一環である。合法の抽選が消えれば、それに寄生していた影富も対象を失う。裏を潰すために表ごと潰したという側面がある。
この一連の経緯が示しているのは、賭博と娯楽と公共事業の線引きが、時代によって動いたということである。富くじは、ある時期には寺社を助ける公共的な資金調達であり、別の時期には禁圧すべき悪弊だった。行為の中身は変わっていない。変わったのは統治の側の判断である。
組しくみ⑤ 賭場と貸元 — 賭博は経営体だった
賭場は、開けば儲かる。理由は、賭場の主催者が勝負に参加しないからである。
賭場の収入源は、勝負のたびに勝った側から一定割合を取る寺銭(てらせん)である。誰が勝とうが負けようが、場を開いている側には一定の割合で金が落ちる。参加者同士の勝ち負けは確率の問題だが、主催者の収入は確率の問題ではない。これが賭場が経営体として成立する理由であり、幕府が「場を開く行為」を重く見た理由でもある。
賭場を仕切る者を、一般に貸元あるいは胴元と呼ぶ。資金を出し、場所を用意し、参加者を集め、揉め事を処理し、手入れに備える。この役割は一人では務まらないので、下に人を置く。近代の記録や文芸に現れる「代貸」「三下」といった呼称は、この階層構造を指すものとして知られている。
ただし、これらの用語がどこまで江戸期に一般的だったかは慎重に扱う必要がある。博徒社会の用語として現在流通しているものの多くは、明治以降の記録や、近代の任侠文芸を通じて定着したものである可能性がある。江戸期の史料に現れる語と、後世に整えられた語彙を混同しない(確度★★)。
賭場に集まる人材の供給源として重要だったのが、無宿である。人別帳から外れた者——欠落した百姓、勘当された者、罪を犯して村を出た者。彼らには帰る場所も、公に守られる身分もない。身分の枠組みの外に置かれた者にとって、賭場の周辺は数少ない食い扶持だった。
そして賭場は、街道と関わりが深い。街道と宿場は人と金が動く場所であり、旅人が集まり、渡世人が流れる。宿場の周辺、河岸、市の立つ場所。人と金が集まるところに賭場が立つという、単純な立地の論理が働いた。
組しくみ⑥ 取り締まりの強化 — 八州廻りと天保の改革
十九世紀に入ると、関東の農村部における治安の悪化が幕府にとって深刻な問題になる。関東は幕領・私領・寺社領が入り組んでおり、領主の境を越えた取り締まりができないという構造的な弱点があった。悪事を働いた者は境を越えれば追及を逃れられる。
この弱点に対処するために設けられたのが、関東取締出役(通称・八州廻り)である。文化2年(1805)の設置とされ、勘定奉行の支配下に置かれ、領主の別を問わず関東一円を巡回して取り締まる権限を与えられた。領域を越える犯罪に、領域を越える警察を当てたということである。取締の主要な対象には、無宿・博徒・徒党が含まれた(確度★★★)。
さらに文政期には、村々を組み合わせて治安維持の単位とする改革組合村(寄場組合)の仕組みが整えられ、村側にも取り締まりへの協力が求められた。これも、賭場と無宿の問題への対応という性格を持つ。
そして天保の改革(天保12〜14年、1841〜43年)である。老中水野忠邦による一連の統制は、風俗・娯楽の全般に及んだ。寄席は数を大幅に削減され、芝居町は江戸の中心から浅草の猿若町へ移され、そして前述の通り富くじが天保13年(1842)に全面禁止された。賭博の取り締まりも強化された。
結果はどうだったか。天保の改革は水野の失脚(天保14年・1843)とともに多くが後退し、規制の一部は緩められた。ただし富くじは復活しなかった。寄席の数は改革後に回復していく。娯楽は戻り、公認の賭けは戻らなかった——この差異は、幕府にとって賭博と娯楽が別のカテゴリーだったことを示している。同時に、非合法の賭場が改革によって消えたわけでもなかった(確度★★)。
今江戸と今 — 線引きは、いまも動き続けている
現在の日本において、賭博は刑法で禁じられている。刑法185条が賭博罪、186条が常習賭博および賭博場開張等図利を定める。原則禁止という枠組みは、江戸から連続している。
ところが、原則禁止のはずの日本には、合法の賭けが複数存在する。仕組みはこうだ。個別の特別法によって、刑法の適用を除外する。
- 公営競技 — 競馬、競輪、競艇(ボートレース)、オートレース。いずれも戦後に個別の法律が制定され、地方自治体等が施行する形で合法化された。売上の一部が公益の目的に充てられるという建て付けを持つ。
- 宝くじ — 当せん金付証票法(昭和23年・1948)に基づき、地方自治体が発売する。収益が公共事業に充てられるという名目を持つ点で、御免富とほとんど同じ論理である。
- カジノ — 2018年に成立したIR整備法(特定複合観光施設区域整備法)により、区域を限定してカジノを含む施設の設置が可能となる枠組みが作られた。
この一覧を江戸と並べてみると、論理がほとんど変わっていないことが分かる。江戸において合法だったのは、寺社の修復という公的な目的を掲げた富くじだけだった。現代において合法なのは、公益への充当を掲げた公営競技と宝くじである。「公の目的に金が回るなら、賭けを許す」という判断の型が、二百年以上にわたって維持されている。
そしてもう一つ、江戸の影富に相当する構造も存在する。パチンコである。遊技場での換金は、店が直接行うのではなく、特殊景品を介して別業者が買い取るという形をとる。この、いわゆる三店方式については法的な評価をめぐって長く議論があり、ここで断定的な判断を示すことはしない(確度★★、法的評価に議論あり)。指摘しておきたいのは構造の相似である。公認の枠のすぐ外側、あるいは境界線の上に、巨大な市場が成立する——これは影富と同じ位置取りである。
近年はオンラインでの賭博が新たな問題となっている。海外に拠点を置く事業者のサイトを国内から利用する行為について、賭博罪の適用が問題となる事例が報じられており、規制と摘発の動きが続いている。技術が場所の制約を無効にしたとき、場所を単位とする法がどう対応するか——八州廻りが領主の境を越える犯罪に対処するために作られたのと、問題の形が似ている。
史同じころ、世界では — 国家は賭博を禁じ、そして自ら胴元になった
賭博をめぐる統治の悩みは、江戸に限らない。
十八世紀のイギリスでは、上流階級の社交クラブ——ロンドンのホワイツやブルックス——での賭けが盛んで、一夜で領地を失うといった逸話が数多く伝えられている。議会は賭博を規制する立法を重ねたが、これも江戸と同様、繰り返されたということはそれだけ実効性に乏しかったということでもある。1845年の賭博法(Gaming Act 1845)は、賭博契約を法的に強制執行できないものとする方向を打ち出した。賭けそのものを取り締まるのではなく、賭けの約束を法が保護しないことにするという手法である。
宝くじに関しては、イギリス政府自身が長く胴元だった。国家財政の一手段として国営宝くじが運営されていたが、社会的批判の高まりを受けて1826年に廃止された。復活するのは1994年である。国家が自ら賭けを開き、やめ、また始めた——この振れ幅は、日本の富くじ禁止(1842)と戦後の宝くじ制度化(1948)の関係とよく似ている。
フランスでは、パリのパレ・ロワイヤルに賭博場が集まり、革命期から王政復古期にかけて公認の賭博営業が行われたが、1830年代に公認賭博場の廃止が決定され、実施された。行き場を失った賭博需要は国外へ向かい、ドイツの温泉保養地(バーデン・バーデン、バート・ホンブルクなど)の賭博場が栄えた。さらにドイツでも十九世紀後半に賭博場が閉鎖されると、興行者は地中海沿岸へ移る。モナコのモンテカルロにカジノが根を下ろすのは、この流れのなかでのことである(1850年代後半に開設、1860年代にフランソワ・ブランの経営で本格化。確度★★)。
そしてアメリカでは、植民地期から十九世紀にかけて、宝くじが公共事業の資金調達手段として広く用いられた。道路、橋、運河、そして大学の建設費が宝くじで賄われた例が知られている。これは御免富とまったく同じ発想である。徴税が難しい社会において、宝くじは自発的な税として機能した。
並べてみれば、洋の東西で同じことが起きている。国家は賭博を悪徳として禁じる。同時に、自らが胴元になれば公益になると考える。この二つの態度は矛盾しているように見えて、実は同じ論理の裏表である——賭けから生じる利益を、誰が取るのかという問題なのだ。
亜アジアのいま — 禁止する国と、招く国
現代アジアにおける賭博の扱いは、国によって極端に分かれる。
マカオは、カジノ産業が地域経済の中核を占める場所である。ポルトガル統治期から賭博営業が認められ、長く独占的な経営権が特定の事業者に与えられていたが、2002年に自由化され、外資を含む複数の事業者が参入した。以後、収益規模で世界有数のカジノ集積地となった。ただし観光需要や政策の変化に売上が強く左右され、単一産業への依存という課題を抱えている。
シンガポールは、長く賭博に厳格な姿勢をとってきたが、方針を転換して統合型リゾート(IR)を誘致し、2010年に二施設が開業した。特徴的なのは、自国民・永住者に対して入場料を課すなど、国内需要を抑制する制度を組み込んだ点である。外国人には開き、自国民には抑えるという設計になっている。
韓国には複数のカジノがあるが、その大半は外国人専用である。自国民が合法的に入場できるカジノは、廃鉱地域の振興を目的として2000年に開業した江原ランドのみとされる。ここでも、地域振興という公的な目的が合法化の根拠になっている(確度★★)。
一方で、賭博を全面的に禁じる国も多い。イスラム法を法体系に組み込む国々では賭博は明確に禁じられ、中国本土でも賭博は違法である(マカオと香港は別の法域である)。
ここから見えるのは、アジアにおいても線引きの論理が江戸と同型であることだ。振興したい地域がある、財源が欲しい、観光客を呼びたい——そうした公的な目的が立てば、賭けは合法化されうる。目的が立たなければ違法のままである。行為の善悪ではなく、目的と受益者によって線が引かれる。御免富が寺社の修復という名目を必要としたのと、構造は変わらない。
そして、合法の枠の外側には必ず非合法の市場が残る。違法賭博、地下の賭場、オンラインの越境賭博。影富が公認の富くじに寄生したように、非合法の賭けは常に合法の賭けの隣に立つ。これは二百年前も現在も変わらない。
報広告と評判 — 博徒を売ったのは、後の時代である
非合法の賭場は広告を出せない。当然である。だから賭場の集客は、口伝えと人の紹介による。評判こそが唯一の広告媒体だった——あそこは寺銭が高い、あそこは揉め事の始末がうまい、あそこは手入れが来ない。
対照的に、富くじは堂々と宣伝された。札の売り出しを知らせる辻札が立ち、札を扱う店があり、当たり番号が発表される。公認の賭けは広告を持ち、非公認の賭けは噂を持つ。この対比はそのまま、現代の公営競技のテレビ広告と、違法賭博の招待制サイトの関係に対応する。
そして、この記事でもっとも注意深く扱わなければならないのが、博徒のイメージがどう作られたかという問題である。
実在の人物を挙げる。国定忠治(文化7年・1810年頃の生まれとされる〜嘉永3年・1850)は上州の博徒で、賭場を仕切り、他の博徒集団と抗争し、追われて逃亡し、最終的に捕らえられて嘉永3年(1850)に磔(はりつけ)に処された。処刑地は上州大戸(現在の群馬県東吾妻町)で、罪状には関所破りが含まれていたとされる。磔は当時の刑罰体系のなかでも極刑に属する。幕府が彼をどう位置づけていたかは、この一点で明らかである。
清水次郎長(文政3年・1820〜明治26年・1893)は駿河の博徒で、幕末に賭場と縄張りをめぐる抗争を重ね、明治以降は事業に転じた人物である。次郎長の名を全国に広めたのは、天田愚庵が明治17年(1884)に著した『東海遊侠伝』であり、以後、講談と浪曲がこれを増幅した。つまり次郎長が「侠客」として有名になったのは、明治に入ってからである(確度★★)。
この二人の例が示すのは、次のことである。
- 実像 — 賭場という違法な経営体を運営し、縄張りをめぐって暴力を用い、無宿を集め、地域の治安問題として当局に取り締まられた存在。百姓が賭場で身代を潰す、その裏側にいた者たちである。
- 後に作られた像 — 義理と人情に厚く、弱きを助け強きを挫き、権力に屈しない民衆の英雄。この像は明治以降の講談・浪曲で形成され、大正から昭和の大衆小説と映画によって決定的に定着した。
なぜこの像が作られ、売れたのか。それが商品として優れていたからである。権力に抗う無頼、筋を通す男、仲間のために命を張る——大衆娯楽として強度の高い物語形式であり、寄席の演目として、講釈として、後には映画として、繰り返し消費された。博徒は、死んでから売れたのである。
なお、賭けと評判が結びついた合法的な領域もあった。相撲と番付である。勝負の結果に金を賭ける行為は禁じられていたが、勝敗を予想し、力士を品評し、番付の上下を論じること自体は、公然たる娯楽だった。予想は娯楽であり、金を賭けた瞬間に犯罪になる。この境界線の引き方も、現代のスポーツ観戦とスポーツベッティングの関係にそのまま引き継がれている。
出典・確度
- 公事方御定書が寛保2年(1742)に成立し、博奕および賭場開帳に関する規定を含むこと — 近世法制史の定説。関係資料は国立公文書館等で扱われる ★★★ [A: 定説・公的機関]
- 博奕に対する処罰が犯行の態様・常習性・身分・関与の度合いによって異なり、一律に述べられないこと — 法制史の共通理解。個別の刑量を一般化して示すことはできない ★★ [B: 定説だが個別差大]
- 幕府が享保期・寛政期・天保期などに繰り返し博奕禁止の触を出し、諸藩も同様の禁令を発したこと — 近世法制史の定説。触の年次・文言は多数にわたる ★★★ [A: 定説・複数の触]
- 禁令の反復を「その行為が広く行われていた」ことの傍証と読む解釈 — 法令史の読解上の作法であり、本記事における解釈である。個々の禁令の実効性は史料ごとに検討を要する ★★ [B: 解釈]
- 賽子を用いる丁半形式の賭博が行われたこと — 定説。ただし中盆・壺振り等の役割や作法の詳細な描写は、近代の任侠文芸・映画によって定型化されたイメージを多く含み、江戸期の実態としてそのまま扱うべきではない ★★ [B: 行為は定説/描写は後世の定型]
- 十六世紀のポルトガル人渡来を契機とするカルタの伝来と、天正かるた・うんすんかるた等の国産化 — 遊技史の定説。「カルタ」の語源がポルトガル語 carta であることも定説 ★★★ [A: 定説]
- 幕府がカルタ賭博を禁じ、そのたびに新たな札が作られたとされる変遷、および花札の成立過程 — 諸説あり確定していない。「禁令を逃れるために図柄を変えて花札が生まれた」という説明は系統としては広く語られるが、個々の変遷を一次史料で厳密に跡づけたものではない ★ [C: 諸説あり]
- めくり等の札を用いる賭博が江戸後期に流行し禁令の対象となったこと — 風俗史・遊技史で扱われる。戯作・随筆に賭博の情景が現れることが傍証となる ★★ [B: 二次資料]
- 富くじ(富突)が寺社奉行の許可を得た御免富のみ合法であり、寺社の営繕費調達を名目としたこと — 近世社会史の定説(本サイト富くじと同水準) ★★★ [A: 定説]
- 影富(公認の富くじの当選番号を対象とする私的な賭け)の存在と、それを禁じる触が繰り返し出されたこと — 近世風俗史で扱われる。規模を示す数値はない ★★ [B: 二次資料・規模不明]
- 天保13年(1842)の富くじ全面禁止 — 定説(本サイト富くじと同水準) ★★★ [A: 定説]
- 賭場の収入源が寺銭(勝者から取る一定割合)であり、主催者が確率によらず利益を得る構造だったこと — 近世風俗史で広く記述される。割合の具体的水準を示す確かな一次史料は乏しい ★★ [B: 構造は定説/数値は不確定]
- 貸元・胴元という賭場の主催者、およびその下の階層構造 — 存在は定説。ただし「代貸」「三下」等の具体的な用語がどこまで江戸期に一般的だったかは慎重を要し、多くは明治以降の記録・近代の任侠文芸を通じて定着した可能性がある ★★ [B: 構造は実在/用語は後世の可能性]
- 無宿(人別帳から外れた者)が博徒集団の供給源となったこと — 近世社会史の定説(本サイト人別帳と無宿と同水準) ★★★ [A: 定説]
- 関東取締出役(八州廻り)の設置(文化2年・1805とされる)と、領主の別を問わず関東を巡回して無宿・博徒等を取り締まった権限 — 近世法制史・治安史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 文政期の改革組合村(寄場組合)の編成と、村側への治安維持協力の要請 — 近世村落史の定説。編成の時期・範囲は地域による ★★★ [A: 定説]
- 天保の改革(天保12〜14年、1841〜43年、老中水野忠邦)における娯楽統制 — 寄席の削減、芝居町の猿若町への移転(天保13年)、富くじ禁止。定説(本サイト寄席・歌舞伎と同水準) ★★★ [A: 定説]
- 水野忠邦の失脚(天保14年・1843)後に改革の統制の多くが後退したが、富くじは復活しなかったこと — 定説 ★★★ [A: 定説]
- 現行刑法185条(賭博)・186条(常習賭博および賭博場開張等図利) — 現行法。条文はe-Gov法令検索で確認できる ★★★ [S: 現行法令]
- 公営競技(競馬・競輪・競艇・オートレース)が戦後の個別法により合法化され、地方自治体等が施行すること — 現行制度。定説 ★★★ [A: 現行制度]
- 宝くじが当せん金付証票法(昭和23年・1948)に基づき地方自治体により発売されること — 現行法令。e-Gov法令検索で確認できる ★★★ [S: 現行法令]
- 2018年成立のIR整備法(特定複合観光施設区域整備法)による、区域を限定したカジノ設置の枠組み — 現行法令 ★★★ [S: 現行法令]
- パチンコにおける景品交換のいわゆる三店方式 — 法的評価をめぐって長く議論があり、本記事では断定的な判断を示さない ★★ [B: 事実は周知/法的評価に議論]
- オンライン賭博(海外拠点の事業者を国内から利用する行為)をめぐる賭博罪の適用と摘発の動き — 報道および捜査当局の発表による。事案ごとに評価が異なる ★★ [B: 進行中の論点]
- 18世紀イギリスのクラブにおける賭博の流行と、繰り返された規制立法、および1845年賭博法による賭博契約の執行不能化 — イギリス社会史・法制史の定説 ★★★ [A: 定説]
- イギリス国営宝くじが1826年に廃止され、1994年に復活したこと — 定説 ★★★ [A: 定説]
- パリのパレ・ロワイヤルの賭博場と、1830年代のフランスにおける公認賭博場の廃止、その後のドイツ温泉地の賭博場の隆盛と閉鎖 — ヨーロッパ社会史の定説。年次の細部は文献により異同がある ★★ [B: 定説だが年次に異同]
- モナコのモンテカルロにおけるカジノの開設(1850年代後半)とフランソワ・ブランによる1860年代の本格化 — 定説だが、開設の起点をどこに置くかで年次が分かれる ★★ [B: 定説だが起点に幅]
- アメリカにおいて植民地期から19世紀にかけて宝くじが道路・橋・運河・大学等の資金調達に用いられたこと — アメリカ史の定説 ★★★ [A: 定説]
- マカオにおけるカジノ経営権の2002年の自由化と、その後の集積 — 現代史・産業の事実。売上規模は年により大きく変動する ★★★ [A: 公表事実]
- シンガポールにおける統合型リゾート二施設の2010年開業と、自国民・永住者への入場料賦課 — 現行制度。料率は改定される ★★★ [A: 現行制度]
- 韓国において自国民が合法的に入場できるカジノが江原ランド(2000年開業)に限られるとされること — 広く報じられる制度上の事実だが、施設の開業時期の表記には資料により異同がある ★★ [B: 制度は事実/年次に異同]
- 国定忠治(文化7年・1810年頃生とされる〜嘉永3年・1850)が上州の博徒であり、嘉永3年に上州大戸で磔に処されたこと、罪状に関所破りが含まれたとされること — 近世史・地方史の定説だが、生年および事績の細部には伝承的要素が混じる ★★ [B: 処刑は定説/事績に伝承混入]
- 清水次郎長(文政3年・1820〜明治26年・1893)が駿河の博徒であり、明治以降に事業へ転じたこと、および天田愚庵『東海遊侠伝』(明治17年・1884)が名を広めたこと — 定説。刊本は国立国会図書館デジタルコレクション等で確認できる ★★ [B: 人物は実在/伝記に脚色]
- 博徒を義理人情の侠客として描く像が明治以降の講談・浪曲、および近代の大衆小説・映画によって形成・定着したこと — 大衆文化史の定説。これらの物語を史料として扱ってはならない ★★★ [A: 定説]
- 相撲の勝敗に金を賭ける行為が禁じられた一方、勝敗の予想・力士の品評・番付論評は公然たる娯楽だったこと — 風俗史で扱われる(本サイト相撲・評判記と番付と同水準) ★★ [B: 二次資料]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。