遊 — あそび / 商 — あきない

富くじ賭けに見えて、じつは寺社の修復費を集める公共事業だった

賭博は御法度である。にもかかわらず江戸には、幕府が正面から許可した賭けがあった。富くじである。なぜ許されたのか。答えは単純で、それが遊びとしてではなく寺社の建物を直すための資金調達として申請され、許可されたからだ。富くじは娯楽の顔をした公共事業であり、そして当然のように、公共事業の枠をはみ出していった。

広重『名所江戸百景 深川万年橋』。桶に吊るされた亀の向こうに富士
歌川広重『名所江戸百景 深川万年橋』(安政4年〈1857〉)。桶から吊るされた亀は、放生会(ほうじょうえ)で売られる放し亀である。買って逃がすことで功徳を積む——寺社は参詣人からこうして銭を集めた。富くじも、その延長にある集金の仕組みだった。メトロポリタン美術館蔵。画像: Wikimedia Commons(CC0)

しくみ — 錐で突いて当たりを決める

富くじは富突(とみつき)とも呼ばれる。番号を記した木札を大きな箱に入れ、蓋の穴から錐を突き入れて、刺さった一枚を当たりとする。人の手で選ぶ余地を残さない、目に見える抽選方式である。突く役は寺社の役僧などが務め、立会人の前で行われた。公開で行うこと自体が、公正さの担保でもあった。

興行するには寺社奉行の許可が要る。許可を得たものを御免富という。申請の名目は堂塔の修復、あるいは伽藍の再建といった営繕費の調達である。幕府にとってこれは、寺社への直接の財政支出を避けつつ建物を維持させる仕組みでもあった。富くじの本質は、税でも寄進でもない第三の集金装置だったと言える。

札は寺社の側が売り出し、売上から当たり金と経費を差し引いた残りが寺社の取り分になる。当たりは一等(一番富)だけでなく、複数の等級と、突いた札の前後の番号に配当を出す仕組みなども設けられ、外れの札にも慰めが用意されることがあった。当選金の額としては百両単位、時に千両といった数字が伝えられるが、興行ごとに規模も配当も異なるため、一つの標準額があったわけではない。

現代換算の落とし穴: 「千両=いくら」と一言で答えることはできない。1両の価値は、米で換算するか、大工の日当で換算するか、蕎麦の値段で換算するかによって数万円から十数万円以上まで開く。しかも江戸時代を通じて貨幣の品位も物価も動いている。当たり金の大きさは「一生働かずに済む額」と語られることが多いが、それは感覚の翻訳であって、正確な金額換算ではない。

江戸と今 — 収益の使い道が許可の条件になる構図

富くじの許可の論理は、現代の公営くじときれいに重なる。日本の宝くじは、収益が発売元である地方自治体の公共事業等に充てられることを前提として、法律上、刑法の賭博罪の適用外に置かれている。賭けの是非ではなく、収益の行き先で合法性が決まる——この構造は、寺社の修復を名目に許可された御免富とまったく同じ発想である。

  • 目的による例外化 — 賭博は禁止だが、公益目的の資金調達なら許す。江戸も現代も、線の引き方は同じ場所にある。
  • 公開抽選 — 錐で突く場面を人前で行うのは、抽選機を回す様子を中継するのと同じ信頼設計だ。手続きが見えることが、公正さの証明になる。
  • 共同購入 — 高額な札を数人で分け合う割札は、現代のグループ購入と変わらない。当たったときの分配で揉めるところまで同じである。

違いがあるとすれば、江戸の富くじは発行主体が国家ではなく個々の寺社だったことだろう。修復したい建物を持つ寺社が個別に申請し、個別に興行する。全国一本の胴元がいる現代の公営くじに対し、江戸のそれは分散型だった。そのぶん、興行の乱立という問題を抱えることにもなる。

同じころ、世界では — 橋も大学もくじで建った

公益目的のくじで建造物を賄う発想は、日本に限ったものではない。近世のヨーロッパでも、都市や国家が公認したくじが、公共施設や救貧の財源として繰り返し用いられている。18世紀のイギリスでは、公認くじの収益が公共事業や施設整備の資金として使われた例が知られ、北米の植民地でも、橋や道路、学校の建設費をくじで集める試みが行われた。

つまり、税で集めるには反発が大きく、寄付だけでは足りない——その隙間を埋める手段として、洋の東西を問わず「当たるかもしれない」という誘因が動員されたのである。人々は寄付を渋っても、くじなら買う。この人間の性質を財政に組み込んだ点で、御免富もヨーロッパの公認くじも同じ発明だった。

そして帰結も似ている。過熱、不正、模倣の横行が問題となり、19世紀には各国で公認くじが縮小・廃止に向かう時期がある。江戸の富くじが天保期に禁止されるのと、時期としてはさほど離れていない。管理された射幸心は、いつでも管理をはみ出す。

アジアのいま — 寺社と富くじの記憶

江戸で富くじの興行地として名高かったのが、谷中の感応寺(現在の天王寺)、目黒の瀧泉寺(目黒不動)、湯島天神である。これらをまとめて「江戸の三富」と呼ぶ言い方が広く知られているが、この三つを一組として並べる整理は後世に定着したもので、同時代の公的な区分ではない。実際には江戸府内外の多くの寺社が富くじを興行しており、三つに限られていたわけではないことには注意が必要だ。

現在、これらの寺社は東京の街なかの参詣地として続いている。目黒不動の門前や谷中の寺町を歩いても、富くじの喧噪の痕跡はほとんど残らない。だが、当時は境内が興行の場であり、参詣と賭けと縁日の商いが分かちがたく混ざっていた。寺社の境内は、江戸最大の複合娯楽施設だったのである。

視野を広げれば、寺廟と富くじ的な慣行の結びつきはアジア各地に見られる。台湾や東南アジアの華人社会では、廟の籤(おみくじ)の番号を数字くじの手がかりにする慣行が今日も語られる。宗教施設と数字の運試しが隣り合うという光景は、江戸の境内で起きていたことの遠い親戚といえる。

広告と評判 — 影富の増殖と、天保13年の幕引き

富くじの札は高価だった。金一分、二分といった単位の札もあり、庶民が気軽に一枚買える値段ではない。そこで割札が生まれる。一枚を複数人で買い、当たれば分ける。さらに札を小口に分けて転売する仲介も現れた。射幸心は、それを買える形に刻む商売を必ず連れてくる。

そして刻みすぎた結果が影富(かげとみ)である。これは公認の富くじの当たり番号を対象にした、まったく非公認の賭けだ。本物の札を買う必要はなく、「どの番号が当たるか」に少額を賭ける。胴元は公認興行の抽選結果に相乗りするだけでよく、元手も許可も要らない。寺社に一文も入らないという点で、影富は富くじの制度趣旨を根こそぎにする寄生だった。

制度が食い破られる: 御免富は「収益が寺社の修復に向かうこと」を根拠に許された。ところが影富は、その公認興行の結果だけを利用して、収益をまるごと私的な賭博に流す。許可の根拠が空洞化したとき、幕府に残された選択肢は多くなかった。

天保13年(1842)、天保の改革の一環として富くじは禁止される。名目上の目的から離れて興行が乱立し、影富が広がった状態は、風俗の取り締まりを掲げる改革にとって格好の標的だった。もっとも、禁止に至るまでにも幕府はたびたび富くじや影富の取り締まりを命じており、天保13年の措置は積み重なった規制の総仕上げという性格が強い。

興行の宣伝には刷り物が使われ、当たり番号もまた刷り物として市中に流れた。番号を知りたい人が大勢いる以上、その情報自体が商品になる。錦絵や瓦版が回っていた江戸の情報環境の上に、富くじは結果を配信する仕組みまで載せていたのである。そしてその配信網こそが、影富という寄生を可能にした土台でもあった。

出典・確度

  1. 喜田川守貞『守貞謾稿』ほか近世随筆 — 富突の方式、札の売り方、興行の様子に関する同時代の記述。原本画像は国立国会図書館デジタルコレクションで公開 ★★★ [S: 一次史料]
  2. 寺社奉行の許可による御免富(寺社の営繕費調達を名目とする興行)— 近世の寺社財政・都市史研究における定説。幕府法令は国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵の記録類で確認できる ★★★ [A: 学術定説・公文書]
  3. 天保13年(1842)の富くじ禁止 — 天保の改革に伴う措置として定説。ただし、それ以前にも断続的な取り締まりがあり、単発の禁令ではない点に注意 ★★★ [A: 定説]
  4. 「江戸の三富」(谷中感応寺・目黒瀧泉寺・湯島天神)— 広く知られる呼称だが、この三つを一組とする整理は後世に定着したものと考えられ、同時代の公的な区分ではない。富くじを興行した寺社は他にも多数ある ★★ [B: 後世の整理を含む通説]
  5. 当たり金の額(百両〜千両単位)と現代換算 — 額は興行ごとに異なり一律ではない。換算は日本銀行金融研究所 貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら?」が示すとおり基準により大きく幅が出る ★★ [A: 換算法は公的機関/個別額は要注意]
  6. 影富(非公認の賭け)の広がりと取り締まり — 近世都市の賭博史で扱われる事象。規模を示す統計はなく、量的な断定は避ける ★★ [B: 事実は定説・規模は不明]
  7. 東京都立図書館国立歴史民俗博物館— 江戸の寺社・盛り場・興行に関する所蔵資料および展示解説 ★★★ [A: 公的機関]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。/ 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20260827 0207