商 — あきない

三貨制度金・銀・銭。三つのお金が同時に流通した経済圏

江戸時代の財布事情は、現代人の想像よりずっと国際的だった。金貨・銀貨・銭貨という単位も性質も違う三種類のお金が同時に流通し、しかも交換レートは日々変動する。江戸の人々は、いわば「常時三通貨の外国為替」の中で暮らしていた。

石見銀山の丁銀(複製)。細長い塊状の銀貨
石見銀山で産した丁銀(複製)。銀は数えるのではなく、量って使った——計数貨幣である金や銭と違い、銀は秤で目方を測る秤量貨幣である。西日本が銀を、東日本が金を主に使ったため、両替が要った。画像: Wikimedia Commons(CC0)

しくみ — 三つの通貨、三つの使いみち

金貨は小判1枚=1両を基準に、1両=4分=16朱と枚数で数える計数貨幣。武家の俸禄や大きな取引に使われた。銀貨は重さ(匁、1匁≒3.75g)で価値を量る秤量貨幣で、上方の商取引の主役。銭貨は1枚=1文の少額通貨で、庶民の日々の買い物はほぼ銭で回った。蕎麦一杯十六文、湯銭十文——庶民の物価が「文」で語られるのはこのためである。

幕府は元禄13年(1700)に金1両=銀60匁=銭4貫文(4,000文)という御定相場を公布した。ただしこれは公的な基準であり、実際の交換は日々変動する時価で行われた。

東西で違う通貨圏: 「江戸の金遣い、上方の銀遣い」と言われ、東日本は金建て、西日本は銀建てで商売が動いた。江戸と大坂の取引には常に為替換算が必要で、これが両替商という金融業を育てた。
金・銀・銭の三貨の関係図。計数貨幣・秤量貨幣・少額通貨の違いと御定相場
図:三貨制度。金は枚数で数え、銀は重さで量り、銭は一文単位で使う。御定相場(元禄13年・1700)は公的な基準で、実際の交換は時価で行われた。

江戸と今 — 両替商は銀行の原型

三通貨の換算・送金・預かり・貸付を担った両替商は、機能としてはほぼ銀行である。江戸・大坂間の代金決済には手形が使われ、現金を運ばずに済む送金インフラが整っていた。多通貨をアプリで持ち替えながら決済する現代のフィンテックは、両替商の仕事の電子化と言ってよい。

また幕府はしばしば貨幣の金銀含有率を変える改鋳を行い、その差益(出目)を財政に充てた。通貨の品位操作が物価に跳ね返る構図は、現代の金融政策とインフレの関係を考える生きた教材になる。

同じころ、世界では — 銀が世界を回っていた

16〜17世紀の世界経済を回していたのは銀である。スペイン領アメリカの銀が太平洋と大西洋を渡り、中国へ吸い込まれていく。日本も17世紀には世界有数の銀産出国であり、石見銀山などの銀が長崎・対馬経由の貿易で海外へ流れた。「鎖国」下の日本も、通貨の面では確かに世界経済の一部だった。

ちなみに幕府が御定相場を公布した1700年の20年後、イギリスでは南海泡沫事件(1720)が起きている。通貨と信用をめぐる試行錯誤は、東西で同時進行していた。

アジアのいま — 国境の市場の多通貨感覚

タイとミャンマー、ベトナムと中国——東南アジアの国境の市場では、いまも複数の通貨が入り混じって流通し、店先のレートで換算しながら商売が進む。江戸の三貨制度の感覚に一番近いのは、教科書の中ではなく、こうした市場の現場かもしれない。

広告と評判 — 両替商の看板と信用

両替商の店先には分銅の形をかたどった看板が掛かった。文字が読めなくても「ここは両替屋だ」と分かるアイコンである。金融業の広告は派手さより信用。屋号と暖簾、そして「あの店は堅い」という評判こそが最大の資産だった。三井のように呉服と両替を兼ねた豪商は、屋号の記号(井桁に三)をあらゆる場面で使い、今日のコーポレートロゴの先駆けとなった。

出典・確度

  1. 日本銀行金融研究所 貨幣博物館「お金の歴史に関するFAQ」「江戸時代の1両は今のいくら?」— 三貨の単位・性質、換算の目安 ★★★ [A: 公的機関]
  2. 元禄13年(1700)の御定相場「金1両=銀60匁=銭4貫文」 — 貨幣博物館FAQおよび概説記事で一致 ★★★ [A: 公的機関+二次資料の一致]
  3. 17世紀日本の銀産出と世界経済への流出 — 高校世界史レベルの定説(石見銀山は世界遺産登録時の評価でも言及) ★★★ [A: 定説]

最終確認日: 2026年8月25日 / 編集・出典ポリシーに基づく。

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