江戸の道は、日本橋という一点から始まる。東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中——この五本を幕府は直轄の幹線と定め、宿場を置き、人馬を常備させ、一里ごとに塚を築いた。それは旅人のための道である前に、まず統治のための道だった。公文書を運び、大名行列を通し、江戸へ人と物を吸い上げるための装置である。旅ブームも飛脚網も、この骨格の上に後から載った。
組しくみ — 伝馬・一里塚・宿場という三点セット
始まりは道普請ではなく、制度だった。慶長6年(1601)、徳川家康は東海道の各宿に伝馬朱印状を下し、公用の人馬を常備させる伝馬制を敷いたとされる。関ヶ原の翌年である。道そのものは古代からあった。新しかったのは「どの宿が、何人と何疋を、いつでも出せるか」を国家が固定した点にある。
続く慶長9年(1604)には、日本橋を起点として主要街道に一里(約3.9km)ごとの塚を築かせたとされる。塚には榎などが植えられ、距離の目印であると同時に、駄賃や人足賃を計算する物差しになった。距離が数値化されて初めて、運賃も日程も見積もれるようになる。
- 東海道 — 江戸〜京都。海沿いの最重要幹線。宿数は五十三次として知られる。
- 中山道 — 江戸〜草津で東海道に合流する内陸路。大井川のような川留めがなく、姫君の輿入れなど確実性を求める旅に選ばれた。
- 日光道中 — 江戸〜日光。徳川家康を祀る日光東照宮への参詣路であり、将軍社参の道。
- 奥州道中 — 宇都宮まで日光道中と重なり、そこから白河へ。北の玄関口。
- 甲州道中 — 江戸〜甲府〜下諏訪で中山道に合流。有事に将軍が甲府城へ退く軍事路としての性格も語られる。
五本を一括して管理したのが道中奉行である。大目付と勘定奉行から各一名が兼任し、街道・宿場・伝馬・並木・一里塚・渡船場までを所管したとされる。江戸の町を町奉行が見たように、街道には街道の奉行がいた。
宿場の内側は、役割ごとに建物が分かれていた。
- 問屋場(といやば) — 宿場の心臓。次の宿へ人馬を継ぎ立てる差配をし、公用の荷と書状を受け渡す事務所である。問屋・年寄・帳付らが詰めた。
- 本陣 — 大名・公家・幕府役人の指定宿。門と玄関、上段の間を備え、一般客は泊められない。
- 脇本陣 — 本陣の予備。行列が重なったときに使われ、空いていれば一般客も泊まれた。
- 旅籠(はたご) — 食事付きの一般旅館。自炊の木賃宿より格上で、庶民の旅を支えた。
そしてこの道を最も大がかりに使ったのが参勤交代である。寛永12年(1635)の武家諸法度で外様大名に義務づけられたとされ、以後、数十人から時に数千人規模の行列が毎年街道を往復した。本陣が必要だったのも、助郷が制度化されたのも、宿場が旅籠を並べて食えたのも、突き詰めればこの定期的な大移動があったからである。為政者たちが意図したのは道路整備というより、大名の財と人を街道に吐き出させ続ける仕掛けだった、と説明されることが多い。
今江戸と今 — 国道1号と道路元標
五街道はいまも地面の下に生きている。日本橋の橋上には日本国道路元標が埋め込まれ、国道1号・4号・6号・14号・15号・17号・20号がここを起点とする。国道1号はおおむね東海道を、20号は甲州道中を、17号は中山道を、4号は日光道中・奥州道中をなぞる。四百年前に引かれた線が、そのまま現代の道路網の背骨になっている。
構造の相似はもっと深いところにもある。宿場ごとに人馬を替える継立は、現代の物流でいう中継輸送とハブ拠点そのものである。トラックドライバーが中間地点でトレーラーを交換し、宅配便が営業所ごとに荷を積み替える運び方は、問屋場のやっていたことと発想が同じだ。本陣・脇本陣・旅籠・木賃宿という宿の階層も、ラグジュアリーからビジネスホテル、ゲストハウスまでの現代の宿泊階層とよく対応する。街道が変わったのは速度であって、骨組みではない。
史同じころ、世界では — 車輪の道と、人の足の道
同じころヨーロッパでは、道は馬車を通すために造られていた。フランスはヴェルサイユを中心に王道網を整え、駅逓(ポスト)に馬を置いて郵便馬車を走らせた。イギリスでは18世紀にターンパイク(有料道路)会社が各地の道を改良し、1784年には郵便馬車が定時運行を始めたとされる。舗装し、勾配を緩め、橋を架ける——目的は車輪を速く回すことにある。
江戸の五街道はそうならなかった。大きな川に橋を架けず、渡船や川越人足に頼り、荷車の使用も限定的だった。軍事上の理由が挙げられることが多いが、理由がどうであれ結果ははっきりしている。日本の街道は人の足と馬の背に最適化された道になった。だからこそ宿場・人馬継立・助郷という、ヨーロッパとは別系統の高密度な運用制度が発達した。舗装の代わりに組織で速度を出した、と言ってもよい。技術ではなく制度で解いた解答である。
亜アジアのいま — 幹線一本が国を貫く
首都から一本の幹線が伸び、その沿線に町と市場が数珠つなぎに並ぶ——この形はいまのアジアの各国でごく普通に見られる。ベトナムを南北に貫く国道1号、タイのバンコクから放射状に伸びる主要道、いずれも沿道に食堂・宿・市場が帯状に張りつき、休憩地点がそのまま小さな経済圏になっている。長距離バスが決まった食堂に必ず停まり、乗客がそこで名物を食べて土産を買う光景は、宿場の茶屋と名物の関係とほとんど変わらない。
幹線が引かれると、その線上に人の暮らしと商いが結晶する。五街道の宿場町が今も地方都市として残っているのと同じ現象が、アジアの幹線沿いでいま進行している。
報広告と評判 — 街道を売った絵と本
街道は行政の産物だったが、これを「行ってみたい場所」に変えたのは出版と絵である。十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1802〜)は宿場ごとの失敗談を連ねて街道を娯楽に変え、歌川広重『東海道五拾三次』(1833頃)は五十三の宿を雨・雪・朝もやとともに描き分けて、宿場名そのものをブランドにした。名所図会の類は各地の名物と見どころを列挙し、実質的なガイドブックとして機能した。制度としての街道に、メディアが物語を貼りつけたのである。
宿場の側も黙って待ってはいない。旅籠は留女(とめおんな)が街道に出て旅人の袖を引き、飯盛女を置く宿は夜の評判で客を集めた。名物餅、名物汁、名物団子——「ここでしか食えない」を掲げる看板は、江戸のうちにすでに完成している。旅人の道中日記や口コミは次の旅人の宿選びを左右し、評判の悪い宿は避けられた。引札のような刷り物の広告文化と、旅の口コミ文化が、街道の上で重なり合っていた。
出典・確度
- 慶長6年(1601)東海道への伝馬制施行、慶長9年(1604)日本橋を起点とする一里塚の築造 — 事典類・自治体史で広く共有される定説。ただし一里塚築造の完了時期や主導者については記述に幅がある ★★ [A/B: 定説だが細部に異同]
- 五街道の構成(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)と、道中奉行(大目付・勘定奉行の兼任)による管轄 — 国立公文書館所蔵の道中関係史料および事典類 ★★★ [A: 定説・一次史料あり]
- 宿場の宿数(東海道五十三次ほか)— 時期により宿の増減があり、数え方によって異同がある。「五十三次」は定着した呼称として扱う ★★ [B: 諸説あり]
- 問屋場・本陣・脇本陣・旅籠・木賃宿の役割、人馬継立と助郷 — 宿場町の自治体史・街道関係資料で一致する ★★★ [A: 定説]
- 参勤交代の制度化(寛永12年・1635の武家諸法度で外様大名に義務づけ、のち譜代にも拡大とされる)— 年次は定説だが、実態としての参勤は制度化以前から行われていた ★★ [A/B: 定説だが前史あり]
- 日本国道路元標と国道1号ほかの起点 — 現行の道路法令にもとづく事実。国土交通省 ★★★ [A: 公的機関]
- 図版: 歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景』(保永堂版・1833頃)、大英博物館蔵。パブリックドメイン、画像はWikimedia Commonsより ★★★ [S: 一次史料・所蔵館表記]
- 『東海道中膝栗毛』(1802〜)・『東海道五拾三次』(1833頃)の刊行年 — 書誌の定説。原本はNDLデジタルコレクション等で閲覧可 ★★★ [S/A: 一次史料あり]
- ヨーロッパの郵便馬車・ターンパイク(18世紀)— 世界史の概説レベルの定説。日本との「橋を架けない/車輪を使わない」対比は解釈を含む ★★ [B: 定説+解釈]