いまの日本では「その法律を知らなかった」は言い訳にならない。刑法は、法律を知らなかったことを理由に罪を犯す意思がなかったとはできない、と定めている。法令は官報に載せて公布され、誰でも読めることになっているからだ。では、紙が高く、字を読めない人もいた江戸ではどうしたか。答えは二本立てだった。変わらない大原則は板に書いて往来に掲げ(高札)、日々の細かな命令(触)は役所から町の中へ、写しと読み聞かせで下ろしていった。江戸の法は、読ませるより、言い聞かせて届けるものだった。法の中身と裁きの仕組みは法と裁きの記事に譲り、ここでは法を人々に「知らせる」道筋を追う。
組しくみ① 二つの道 — 掲げる法と、下ろす法
幕府や藩が人々に向けて出す命令を、広く触(ふれ)という。広く知らせる触に対し、特定の役人や役所にだけ伝える命令は達(たっし)と呼んで区別した(確度★★★)。触のうち、長く変わらない根本の決まりは板の札に書いて掲げた。これが高札である。一方、物価の取り締まり、火の用心、倹約、祭りの作法、捨て子の届け出といった、そのときどきの命令は紙の触として、役所から人の手を経て町や村の中へ下ろされた。江戸の町人に向けて町奉行が出したものを、とくに町触と呼ぶ(確度★★★)。
幕府自身も触を大事な記録として扱い、八代将軍吉宗の時代から過去の触を年代順に編み直させた。これがのちに『御触書寛保集成』と呼ばれる集成で、宝暦・天明・天保と続編が作られた(確度★★★)。法を「出す」だけでなく、出した法を「控えておく」ことまでが、統治の仕事だった。
組しくみ② 高札場 — 往来に立つ法
高札は、板に法令を墨で書き、人通りの多い場所に掲げた札をいう。掲げる場所が高札場で、石垣や土台の上に柱を立てて屋根を架け、周りを柵で囲う造りが多かった(確度★★)。冒頭の写真の復元も、この形をなぞっている。
江戸でいちばん名高いのが日本橋の高札場である(確度★★★)。日本橋は五街道の起点で、諸国から人と荷が集まる。そのたもとに法を掲げれば、江戸の者だけでなく旅人の目にも入る。日本橋の南のたもとには、高札場と向かい合うように罪人を晒す場所も置かれていたとされる(確度★★)。法を掲げる場所と、法を破った者を見せる場所が、同じ橋のたもとにあったことになる。日本橋のほか、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝の札の辻を合わせた六か所を江戸の「大高札場」とする説明が多い(確度★★)。いまの港区に残る「札の辻」という地名は、この高札場に由来するとされる(確度★★)。
高札場は江戸だけのものではない。街道の宿場の入口や問屋場の前、村の辻、渡し場、関所の前など、人の通る場所ならどこにでも立てられた(確度★★)。塩尻宿の高札場も、石柱に「下問屋跡」と並べて刻まれているとおり、宿場の荷を継ぐ問屋場のそばにあった。高札場の手入れは町や村の負担で、雨風で字が薄れれば書き直した(確度★★)。上水の水路の脇には、ごみを捨てるな、水を浴びるなと記した札が立った。札は、その場所で守るべきことを、その場所で告げる道具でもあった。
組しくみ③ 正徳元年の書き替え — 札には何が書かれたか
高札の文面は、時代とともに改められた。五代将軍綱吉のもとで天和2年(1682)に大きな改めがあり、六代家宣のもとで正徳元年(1711)、幕府は全国の高札を書き替えさせた(確度★★★)。この正徳の高札が、細かな手直しを受けながら、幕末まで高札の基本の形になったとされる(確度★★)。冒頭の復元札の末尾に「正徳元年五月日」とあるのは、この書き替えにならったものである。
正徳の書き替えで掲げられた代表的な札は、次のようなものだった(呼び名はのちの通称。札の数や文面は土地と時期で違いがある。確度★★)。
- 親子兄弟の札(忠孝札とも)— 親子・兄弟・夫婦・親類が睦まじくし、主人を大切にし、家業に励め、と説く。罰の決まりというより、暮らしの心得に近い。
- 毒薬の札 — 毒薬やにせ薬の売り買い、にせの金銀などを禁じる。
- 切支丹の札 — キリシタンを禁じ、宣教師(バテレン)を訴え出た者には銀五百枚などの褒美を与えると約束する。
- 火付の札 — 放火を禁じ、火付けを見つけて訴え出た者に褒美を与える。
- 駄賃の札 — 宿場で人や馬を雇う賃銭を定める。街道の宿場に掲げられた。
並べてみると、札の性格が見えてくる。第一に、読む人を見張り役にする札が多い。切支丹や火付けの札は、禁じるだけでなく「見つけたら訴え出よ、褒美を出す」と呼びかける。切支丹の札は、寺に人々の宗旨を毎年確かめさせた宗門人別改と対になっていた。役人の少なさを、通りがかる一人ひとりの目で補う仕掛けである。第二に、禁止と褒美は書いてあっても、破ったときの刑は書かれていない。そこは法と裁きの記事が扱う、表に出さない法典の領分だった。札の文は漢字仮名まじりで、紙の触よりは平らな言い回しで書かれたとされる(確度★★)。冒頭に「定」、末尾に年月と「奉行」を置く形が多く、写真の復元札もそうなっている。
組しくみ④ 町触 — 奉行から店子まで
江戸の町触は、決まった道を下りていった。町奉行所で決まった触は、まず町年寄に渡される。町年寄は奈良屋・樽屋・喜多村の三家が代々務めた町人の最上位で(確度★★★)、その役所に江戸の名主たちが呼び集められた。名主は触を写し取って受け持ちの町々へ持ち帰り、町の家主(大家)たちに伝える。家主は自分が預かる長屋の店子を集め、触の中身を読み聞かせた(確度★★)。紙に書かれた文は名主のところで写されて紙のまま下りるが、その先、裏長屋の住人に届くときには、多くの場合「声」になっていた。
伝えて終わりにはしなかった。名主や家主は、触を承知したしるしに印を押した請書を差し出した(確度★★)。触の末尾には、借家人や裏店の者にまで残らず申し聞かせよ、という趣旨の決まり文句がしばしば添えられている(確度★★)。家主は店子の身元を請け負う立場でもあったから、伝え漏れは家主の落ち度になりうる。受け取った、伝えた、という証しを段ごとに取ることで、百万都市の隅々まで、役人ではなく町人の手で法を行き渡らせた。
なぜ読み聞かせが要ったのか。江戸の町人の読み書きの力は同時代の世界でも高いほうだったとされるが(寺子屋の記事)、触は候文で書かれ、くずし字で写された。読める人でも、仕事の手を止めて一枚ずつ読み下すとは限らない。読めるかどうかに頼らず、聞けば分かる形にして届ける——それが確実だった。いま私たちが江戸の町触を読めるのは、伝える途中で名主や町年寄の側に写しが残ったからでもある。それを集めて刊行したのが『江戸町触集成』(近世史料研究会編)である。
組しくみ⑤ 村の廻状 — 写して、判を押して、次の村へ
村へは、代官所や領主の役所から廻状(かいじょう)で知らせを回した。廻状には宛先の村の名が順に書き連ねられ、受け取った村の名主(西国では庄屋)は中身を写し取り、受け取りの印を押して次の村へ送る。最後の村は廻状を役所へ返す(確度★★)。受け取った時刻を書き込ませ、どこで止まったかが分かるようにした例も多い(確度★★)。名主が写した控えは御用留と呼ばれる帳面に綴られ、いまでは村の暮らしを知る大切な史料になっている(確度★★)。
村でも、触は名主が村人を集めて読み聞かせた。とくに五人組帳の前書——年貢の納め方からキリシタンの禁制、博打の禁止、親孝行まで、村人の守るべき箇条を書き並べた心得書き——は、折にふれて読み聞かせ、村人に印を押させたとされる(確度★★)。寺子屋では、この前書を読み書きの手本に使った例もあるという(確度★★)。法は、繰り返し聞かされ、手で写されることで、体に入る言葉になった。
今江戸と今 — 札を下ろした日と、官報・掲示板・回覧板
明治政府は慶応4年(1868)3月、旧幕府の高札に代えて「五榜の掲示」と呼ばれる五枚の高札を掲げた。その第三札は、キリシタンを邪宗門として禁じ続けていた(確度★★★)。欧米の国々はこれに強く抗議し、欧米を回っていた岩倉使節団も行く先々で批判を受けたとされる(確度★★)。明治6年(1873)2月、政府は太政官布告で、高札に書かれたことはすでに広く知れ渡っているとして、高札を取り除かせた(確度★★★)。キリスト教を認めるとはどこにも書かれていないが、この撤去で禁制の札は町角から消え、事実上の黙認に転じたとされる(確度★★)。
札に代わって法を知らせる役を担ったのは、印刷された紙だった。明治16年(1883)に官報が創刊され(確度★★★)、法令は官報に載せて知らせる形が整っていく。いまも法律の公布は官報への掲載によるのが慣行で、令和5年(2023)に成立した法律により、2025年4月からはインターネットで出す官報が正本になった(確度★★)。往来に掲げた札が、紙になり、画面になった。
一方で、掲示と回覧の形はいまも町に残る。市町村の条例は、役所の前などの掲示場に掲げて公布すると定めている自治体が多い(確度★★)。冒頭の写真で、復元の高札の真下に「町区掲示板」が付いているのは、偶然以上のものに見える。町内会・自治会の回覧板は、家から家へ判を押して回す。戦時中の昭和15年(1940)に整えられた隣組の制度で全国に広まったとされる(確度★★)。判を押して次へ回す、という手順は、村の廻状とほとんど同じである。そして災害のときに流れる防災行政無線は、字を読めなくても届く「声」の知らせであり、家主の読み聞かせの遠い子孫と言えるかもしれない。
史同じころ、世界では — 触れ役の声、教会の布告、印刷の公報
ヨーロッパの町にも、法や布告を声で届ける仕組みがあった。イギリスなどの町には触れ役(タウン・クライヤー、town crier)がいて、鐘を鳴らし「オイエ、オイエ(Oyez)」と呼びかけてから、市場や広場で布告を読み上げたとされる(確度★★)。字を読めない人が多い社会で、声がいちばん確かな伝え手だった点は江戸と変わらない。
人がいちばん集まる場所として使われたのは、教会だった。日曜の礼拝には教区の住民がそろうので、王や領主の布告を礼拝の場で読み上げさせることが各地で行われたとされる(確度★★)。江戸で人を集める場所が橋のたもとと町の役所だったとすれば、ヨーロッパではそれが教会だったことになる。
違いが大きいのは印刷である。イギリスでは1665年に政府の公報が創刊され、のちに『ロンドン・ガゼット(The London Gazette)』と名を変えて、いまも発行が続いている(確度★★★)。1665年は寛文5年にあたる。布告は印刷されて町に貼り出され、公報で広く配られた。対して幕府の触は、基本的に手で写して回された(確度★★)。ヨーロッパが紙を刷って配ったころ、江戸は人を段々に並べて言葉を下ろした。日本の法が印刷の公報で知らされるようになるのは、明治の官報からである。
亜アジアのいま — 村の拡声器と、手元に届く一斉通知
声で知らせる仕組みは、アジアの各地にいまも生きている。中国の農村では、村の拡声器で行政の知らせを流すやり方が長く使われてきた。2020年の感染症の流行のときには、村の拡声器で外出を控えるよう呼びかける放送が各地で報じられた(確度★★)。ベトナムでも、町や村に据えた拡声器で行政の知らせを流す仕組みが長く続き、都市部では騒音などを理由に縮小が議論されてきた(確度★★)。読ませるより聞かせる、という江戸の発想は、いまのアジアの町角にも残っている。
一方で、知らせを人の手元に直接届ける仕組みも広がった。韓国では、災害のときに携帯電話へ一斉に送られる「緊急災害文字」が暮らしに定着している(確度★★)。日本の緊急速報メールも同じ考え方である。江戸では、触は役所から町年寄、名主、家主と段を下りて、ようやく店子の耳に届いた。いまは段を飛ばして一人ひとりの手の中に届く。ただ、受け取ったかを確かめる「請書」にあたる仕組みは、むしろ江戸のほうが手厚かったとも言える。
報広告と評判 — 三日法度、落首、瓦版
触は出せば守られる、というものではなかった。「三日法度」という言い方がある。お上の決まりは三日もすれば守られなくなる、あるいは三日で変わる、という皮肉である(確度★★)。倹約令のような触が、改革のたびに似た文面で繰り返し出されたこと自体が、守られにくさを物語っている。
お上の触に、町の側は言葉で応じた。人目につく辻や橋には、政治を皮肉る落首(作者を伏せた戯れ歌)が貼られたり、口から口へ伝わったりした(確度★★)。寛政の改革の厳しさを詠んだとされる「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」はその代表である(確度★★、作者は分からない)。掲げられた法に、読み人知らずの歌が返事をしていたことになる。
触の噂や中身が、瓦版や手書きの写しで出回ることもあった(確度★★)。だが幕府は、時事やお上のことを勝手に刷って売ることを禁じていた。触を伝えるのは、あくまで町年寄から下りる正規の道であり、刷り物で広めるのはその外側の、半ば黙認された流れだった。なお「札」という同じ字は、お上の命令だけでなく、商家が配る広告の引札にも使われた。人に知らせるための紙と板が、命令にも宣伝にも「札」と呼ばれていたのは、江戸の知らせの世界の広さを示している。「お触れが出る」という言い回しは、いまも日本語に残っている。
出典・確度 16件 最終確認 2026年10月22日 ひらく
- 近世史料研究会編『江戸町触集成』(塙書房) — 江戸の町触の本文。触の末尾の決まり文句、町年寄から名主への伝達の文言を参照した ★★★ [S: 一次史料の翻刻]
- 高柳眞三・石井良助編『御触書寛保集成』ほか宝暦・天明・天保の各集成(岩波書店) — 幕府の触と、幕府自身による触の編纂 ★★★ [S: 一次史料の翻刻]
- 国立公文書館 — 高札・触書・太政官布告の所蔵と解説 ★★★ [A: 公的機関]
- 国立国会図書館 — 『法令全書』による五榜の掲示(慶応4年)と、高札の撤去を命じた太政官布告(明治6年2月) ★★★ [S: 一次史料]
- 触と達の区別、町触の定義 — 近世法制史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 日本橋の高札場、南のたもとの晒し場、江戸の大高札場を六か所とする説明、港区の「札の辻」の地名の由来 — 中央区・港区の地域解説ほか。大高札場の数え方には説明による違いがある ★★ [A: 自治体資料・数は諸説]
- 中山道塩尻宿の高札場跡と、その復元 — 塩尻市の資料、および図版の現地写真 ★★ [A: 自治体資料]
- 天和2年(1682)の高札の改め、正徳元年(1711)の全国的な書き替え、親子兄弟・毒薬・切支丹・火付・駄賃の各札と切支丹札の褒美 — 近世法制史の通説。札の数・呼び名・文面は地域と時期で異なる ★★ [B: 通説・細部に差]
- 町奉行から町年寄(奈良屋・樽屋・喜多村)・名主・家主・店子へ下りる町触の伝達、請書、読み聞かせ — 近世都市史の通説と、上記『江戸町触集成』所収の触の文面による ★★ [B: 通説・一次史料で裏づけ]
- 村の廻状、受け取りの時刻の書き込み、御用留、五人組帳の前書の読み聞かせと寺子屋での手本の使用 — 近世村落史の通説。運用の細部は領主と地域によって違う ★★ [B: 通説・地域差あり]
- 官報の創刊(明治16年・1883)、官報の発行に関する法律(令和5年成立)とインターネット版官報の正本化 — 国立印刷局の解説 ★★ [A: 公的機関・新制度は施行直後]
- 刑法第38条第3項(法律の不知)、地方自治法による条例の公布と各自治体の公告式条例 — e-Gov法令検索 ★★★ [S: 法令本文]
- 回覧板と隣組(昭和15年・1940)、防災行政無線 — 現代史の通説・自治体資料 ★★ [B: 二次資料]
- ヨーロッパの触れ役と教会での布告の読み上げ、1665年創刊の公報と『ロンドン・ガゼット』 — 西洋史の概説、The Gazetteの沿革解説 ★★ [B: 概説・公報の創刊は★★★]
- 中国の村の拡声器、ベトナムの町の拡声器、韓国の緊急災害文字 — 報道・現地の行政資料による。現状は変化が速い ★★ [B: 現代資料]
- 「三日法度」の言い回し、寛政の改革をめぐる落首、瓦版と出版の取り締まり、引札 — 近世文化史の通説。落首の作者は不明 ★★ [B: 通説]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年10月22日。 / 「掲げる法と下ろす法」「読ませるより言い聞かせる」という整理は本サイトによる再構成である。出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。