旅 — みち

川の道 — 物は舟で運ばれた街道は人と書状の道、川は物の道

江戸の道と聞けば、日本橋から伸びる五街道を思い浮かべる。だが街道を行き来したのは主に人と書状で、重い荷は別の道を通った。川である。米・塩・薪炭しんたん・材木——百万都市の暮らしを支える、重くかさばる物の多くは、舟と筏で江戸に入った。江戸は川と堀でできた都市で、街道は人と書状の道、川は物の道だった。この記事では、関東の川がどう江戸へ向けて組み替えられ、岸と番所と舟がどう動いていたかを追う。海の道は北前船の記事に譲り、ここでは内陸の水の道を見る。

歌川広重『名所江戸百景』中川口。川面に乗客を乗せた舟が二艘、長い筏を棹で操る人が何人も描かれ、奥の川筋にも舟が並ぶ
歌川広重『名所江戸百景』より「中川口」(揃物は安政3〜5年〈1856〜58〉刊)。小名木川が中川に合わさるあたりで、中川船番所が置かれた場所である。手前には客を乗せた舟が二艘、川面には長い筏を棹で操る人が何人も、奥の川筋にも舟が並ぶ。左下の岸には建物の屋根と二人の旅人が見える。人も木も荷も、この一つの水面を通った。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

組しくみ① 馬一頭と舟一艘 — なぜ重い物は水に乗ったか

陸の荷運びには、はっきりした上限があった。宿場で荷を継ぎ送る制度では、本馬(ほんま)一疋に負わせる荷は40貫目(約150kg)まで、人足一人なら5貫目(約19kg)までと定められていた(確度★★★)。米俵なら、馬一頭でおよそ二俵から三俵である。しかも五街道は大きな川に橋を架けないところが多く、荷車の使用も限られていた。陸路で米を千俵運ぼうとすれば、数百頭の馬と同じ数の馬子が要る。

舟はこの勘定を一変させる。川舟の大きさは川の深さと季節によってまちまちだが、小さな川舟でも米数十俵、大きな荷舟では数百俵を積んだとされる(確度★★、舟の型と水量で大きく変わる)。乗り組むのは数人の船頭である。下りは流れが運び、上りは帆や棹、岸から綱で曳くこともあった。

目安の計算: 馬一頭に米二〜三俵、舟一艘に数十〜数百俵。舟一艘は、馬に直せば数十頭から百頭を超える分になる。数字は本サイトが上の目安から割り出した幅で、正確な比ではない。だが桁が一つ二つ違うことは動かない。重い物ほど水に乗った理由は、この桁の差にある。

組しくみ② 川を付け替える — 利根川の東遷

徳川家康が入った頃の関東では、利根川はいまと違って南へ流れ、江戸湾に注いでいた。これを東へ曲げ、銚子で太平洋に出す流れに変えていったのが利根川の東遷である。文禄3年(1594)の会の川の締め切りを始まりとし、関東郡代の伊奈氏のもとで元和7年(1621)に赤堀川の開削が始まる。承応3年(1654)の赤堀川の通水をもって一区切りとする見方が広く知られるが、その後も川幅を広げる工事は続き、どこを完成とみるかは見方によって分かれる(確度★★)。目的も、江戸を水害から守る、新田を開く、舟の道を通す、と複数が挙げられ、どれを主とみるかは諸説ある。

結果として、関東の川はつながった一本の網になった。東北の諸藩が江戸へ送る米は、銚子で川舟に積み替え、利根川を遡って関宿まで上り、そこから江戸川を下り、行徳を経て江戸へ入る道をとることができた。房総半島を回る外海の危険を避ける、この内陸の道は「内川廻し」と呼ばれる(確度★★)。分かれ目の関宿には関所が置かれた。江戸の町の中にも、町づくりの最初から道三堀や日本橋川などの堀が掘られ、川の網は城下の蔵の前まで届いていた。

組しくみ③ 小名木川と中川船番所 — 塩の道と、川の関所せきしょ

江戸の東、隅田川から中川までをほぼ一直線に東西へ結ぶのが小名木川である。家康の入府(天正18年・1590)からまもなく、行徳の塩を江戸へ運ぶ水路として開かれたとされる(開削の年代には諸説ある。確度★★)。行徳(いまの千葉県市川市)は江戸にいちばん近い塩の産地で、ここから新川・小名木川と舟でつなげば、塩は海の荒波を通らずに江戸へ届く。塩は城と町の命綱だった。のちに瀬戸内から海路で入る「下り塩」が市場を広く押さえていくが、川の道そのものは米や薪炭しんたん、野菜を運ぶ幹線として使われ続けた(確度★★)。

この水路の東の口、小名木川が中川に合わさるところに置かれたのが中川船番所である。はじめは小名木川の隅田川寄り(深川・万年橋のあたり)にあり、寛文元年(1661)に中川口へ移されたと伝えられる(確度★★)。陸の関所と同じく、江戸を出入りする女性や鉄砲を改め、舟の積荷も調べた。通れるのは明け六つから暮れ六つまでで、夜の通航は認められなかったとされる(確度★★)。江戸の東の水の玄関に置かれた川の関所せきしょであり、明治2年(1869)の関所廃止とともに役目を終えた(確度★★)。冒頭の広重の絵は、まさにこの場所を描いている。

番所を通る舟は荷舟だけではなかった。行徳船は行徳と日本橋の小網町を結ぶ客の舟で、寛永9年(1632)に行徳の船持ちがこの航路の権利を得たとされる(確度★★)。成田山や香取・鹿島へ詣でる旅人は、江戸から行徳までを舟で行き、そこから陸路に移った(確度★★)。旅の一区間を、川が受け持っていたことになる。

組しくみ④ 河岸と問屋といや、艀はしけと茶船 — 荷を受ける岸

川の道の駅にあたるのが河岸である。舟から荷を揚げ、蔵に入れ、次の舟や馬へ積み替える岸を言う。江戸の日本橋川や隅田川の岸には、魚河岸、米河岸、行徳河岸、鎌倉河岸といった名が並んだ。幕府の米は浅草御蔵に入り、そこから札差を通じて旗本・御家人へ渡っていく。揚がった荷を預かり、捌き、口銭を取ったのが問屋である。

上方から酒や木綿を積んで来る大きな廻船は、浅い堀には入れない。品川沖や佃島沖に錨を下ろし、そこで小回りのきく艀はしけや茶船に荷を移して、河岸まで運び込んだ(確度★★)。海の道と川の道は、この積み替えで結ばれていた。

関東の川筋にも河岸は点々と並んだ。利根川・鬼怒川・江戸川の沿岸には、荷の積み替え・保管・舟の手配を請け負う河岸問屋が立つ。18世紀後半の明和・安永年間には、幕府が関東の河岸を調べ(河岸吟味)、運上を納めさせるかわりに河岸問屋の営業を株として認めたとされる(確度★★)。株仲間と同じく、営業の権利を公に認める代わりに上納を取る仕組みが、水の道にも及んでいたことになる。

組しくみ⑤ 高瀬舟と筏 — 浅い川を通し、木を流す

川を舟の道にするには、川そのものに手を入れる必要があった。京都の豪商角倉了以(すみのくら りょうい)は、慶長11年(1606)に大堰川(保津川)を開いて丹波から京へ舟を通し、慶長16年(1611)ごろからは京都の二条から伏見へ下る運河高瀬川を開いた。工事は子の素庵に引き継がれ、伏見を経て大坂へつながる舟の道ができた(確度★★★)。ここを行き来したのが、底が平たく浅い川でも進める高瀬舟である。角倉家は通航料を取り、運河は事業として回った(確度★★)。なお関東の利根川にも「高瀬船」と呼ばれる大型の荷舟があったが、同じ名でも大きさや形は川によって大きく違う(確度★★)。

舟にさえ載らない物もある。材木である。山で伐った木は筏に組み、川の流れに乗せて下流へ送った。江戸へは、荒川水系の上流(いまの埼玉県飯能市のあたり)から「西川材」と呼ばれる杉や檜が筏で下ってきたことが知られる(確度★★)。着いた材木を水に浮かべて蓄えたのが深川の木場で、元禄14年(1701)に材木商がこの地に移ったとされる(確度★★)。水面の材木を鳶口とびぐち一本で操る職人は川並と呼ばれた。冒頭の絵で中川に浮かぶ長い筏は、こうした木の流れの一場面である。

今江戸と今 — 荷は線路と道路へ、川は防災へ

川の道は明治に入ってもしばらく主役だった。明治10年(1877)ごろには蒸気船「通運丸」が東京と利根川筋を結び(確度★★)、明治23年(1890)にはオランダ人技師ムルデルの設計で、利根川と江戸川を短く結ぶ利根運河が開かれる(確度★★★)。だが同じころ、関東平野には鉄道が延び始めていた。荷は少しずつ線路へ移り、戦後にトラックが普及すると、荷を運ぶ川の道はほとんど消えた(確度★★)。江戸の堀の多くは戦後に埋め立てられ、日本橋川の上には昭和38年(1963)に首都高速道路が架かった。いまその地下化の工事が進んでいる(確度★★)。

それでも水の道は形を変えて残っている。小名木川はいまも流れ、江東区の低い土地では閘門で水位を調整しながら舟を通す。隅田川には水上バスが走り、観光の舟が行き交う。そして都や区は、川沿いに防災船着場を整えている。大きな地震で道路が寸断されたとき、救援物資や人を舟で運ぶための岸である(確度★★)。道が塞がったら川で運ぶ——江戸の物流の発想が、非常時の備えとして戻ってきている。木場の川並の技は「木場の角乗」として、東京都の無形民俗文化財に指定され受け継がれている(確度★★)。

史同じころ、世界では — イギリスの運河、オランダの曳舟

江戸が川の網を整えていたころ、イギリスでも重い物を水に乗せる工夫が始まっていた。1761年に開かれたブリッジウォーター運河は、ブリッジウォーター公が技師ブリンドリーに造らせたもので、ウォーズリーの炭鉱からマンチェスターへ石炭を運んだ。開通後、マンチェスターの石炭の値段はおよそ半分に下がったと伝えられる(確度★★)。これを皮切りに18世紀末には運河が次々と掘られ、「運河狂時代」と呼ばれる。運河では、馬一頭が岸から曳く舟に、荷馬が背負う何十倍もの荷を積めた(確度★★)。馬は背に載せるより、水に浮かべて曳くほうがはるかに多く運べる——江戸の舟運と同じ理屈である。だが1830年にリヴァプール・マンチェスター鉄道が開くと、荷は線路へ移っていく(確度★★★)。産業革命の最初の動脈は、鉄道ではなく水だった。

オランダでは、1630年代から都市と都市を結ぶ曳舟用の運河が掘られ、馬が岸から曳く客船(オランダ語で trekschuit)が決まった時刻に出た(確度★★)。行徳船の航路の権利が認められたとされる寛永9年(1632)と、ほぼ同じ時期である。時刻表どおりに走る水の上の乗合は、近世の東西に並んで現れていた。そして明治の利根運河を設計したのが、この運河の国から来た技師だったことも、偶然ではないだろう。

亜アジアのいま — バンコクの運河、メコンの水上市場

水の道で暮らしを回す都市は、アジアにいまも残る。タイのバンコクは、かつて運河(クローン)が町じゅうに巡らされ、舟で物を売り買いする水の都だった。20世紀に入ると多くの運河が埋められて道路になったが、チャオプラヤー川には通勤客を乗せる乗合の舟が行き交い、残った運河にも乗合船が走る(確度★★)。堀が埋められて道路に変わった東京と、同じ道をたどった部分と、たどらなかった部分がある。

ベトナム南部のメコン・デルタでは、カントー近くのカイランなどの水上市場が知られる。舟の上で果物や野菜が卸され、売り物を竿の先に吊るして、何を扱う舟かを遠くから知らせる(確度★★)。観光の名所になった市場もあれば、道路と橋の整備で規模が縮んだ市場もある。陸の道ができると水の市が細っていくのは、明治以降の関東の河岸がたどった道と重なる。ただ、川が国境を越えて流れるメコンでは、上流のダムや水量の変化が舟の暮らしを左右するという、江戸にはなかった難しさも抱えている(確度★★)。

報広告と評判 — 絵に描かれた舟、評判の船宿

川の道は、名所として描かれた。広重の『名所江戸百景』には、隅田川や堀、河岸を舞台にした図が数多く含まれる。冒頭の「中川口」もその一つで、番所のある川口を、筏と客舟の行き交う風景として描いている。天保年間に刊行された『江戸名所図会』にも、河岸の賑わいや行徳へ向かう船着き場が描かれている(確度★★)。絵の中の舟は、案内記を読む人にとって「この道を通って行ける」という知らせでもあった。

評判で客を呼んだのが船宿である。柳橋や山谷堀の船宿は、舟と船頭を手配し、客を待たせる座敷を持っていた。吉原へ通う客を乗せた細長く速い猪牙舟はその代表で、速さと引き換えによく揺れたと語られる(確度★★)。吉原への道の評判は、どの船宿の、どの船頭の舟に乗るかでも決まった。

川の舟が物語になった例もある。京都の高瀬川を下る高瀬舟は、遠島を言い渡された罪人を大坂へ送る舟としても使われたと伝えられる。神沢杜口の随筆『翁草』に記されたその話をもとに、森鴎外は大正5年(1916)に小説『高瀬舟』を書いた(確度★★★)。物を運ぶために掘られた運河が、近代の文学では人の運命を運ぶ舟として記憶された。

出典・確度 17件 最終確認 2026年10月22日 ひらく
  1. 宿駅の継立で本馬一疋40貫目・人足一人5貫目とする公定の荷の重さ — 近世交通史の定説。児玉幸多『近世宿駅制度の研究』(吉川弘文館)ほか ★★★ [A: 定説]
  2. 川舟の積載量(数十俵〜数百俵) — 舟の型・川・季節によって大きく異なり、ここでは幅として示した ★★ [B: 二次資料・幅あり]
  3. 利根川東遷(文禄3年の会の川締め切り、元和7年の赤堀川開削着手、承応3年の通水)と、その目的・完成時期をめぐる諸説 — 国土交通省関東地方整備局の解説ほか ★★ [A: 公的資料・年次は諸説]
  4. 銚子から利根川・関宿・江戸川を経て江戸へ入る「内川廻し」、関東の河岸と河岸問屋、明和・安永期の河岸吟味 — 丹治健蔵『関東河川水運史の研究』(法政大学出版局)ほか近世水運史の研究 ★★ [B: 研究書]
  5. 小名木川が行徳の塩を運ぶ水路として開かれたとされること(開削年代は諸説)、行徳の塩田 — 江東区・市川市の解説 ★★ [A: 自治体資料・年代諸説]
  6. 中川船番所の移転(寛文元年・1661と伝わる)、改めの内容、通航の時刻、明治2年の廃止 — 江東区中川船番所資料館の展示・解説による ★★ [A: 公立資料館]
  7. 行徳船(寛永9年・1632に航路の権利を得たとされる)と成田・香取・鹿島への参詣客の利用 — 市川市の地域資料 ★★ [B: 地域資料]
  8. 江戸の河岸(魚河岸・米河岸・行徳河岸・鎌倉河岸)、浅草御蔵、沖の廻船から艀・茶船への積み替え — 近世都市史・流通史の通説 ★★ [B: 二次資料]
  9. 角倉了以・素庵による大堰川(保津川)・高瀬川の開削と高瀬舟 — 京都市の史跡解説ほか。通航料の扱いは概説による ★★★ [A: 定説]
  10. 荒川上流の西川材の筏流し、深川木場(元禄14年・1701とされる)、川並と木場の角乗 — 江東区の地域資料ほか ★★ [B: 地域資料]
  11. 通運丸(明治10年ごろ)、利根運河(明治23年・1890開通、ムルデルの設計)、鉄道・トラックへの移行 — 国土交通省関東地方整備局の解説ほか ★★ [A: 公的資料・一部は概説]
  12. 日本橋川上の首都高速道路(昭和38年・1963)と地下化事業、防災船着場、隅田川の水上バス — 東京都の資料ほか ★★ [A: 公的資料]
  13. ブリッジウォーター運河(1761年)、マンチェスターの石炭価格の下落、運河狂時代、リヴァプール・マンチェスター鉄道(1830年) — イギリス経済史の定説。石炭価格が半分になったという数字は伝承的な言い方を含む ★★★ [A: 定説・数字は★★]
  14. オランダの曳舟運河と定期の客船(1630年代から) — ヨーロッパ交通史の概説 ★★ [B: 二次資料]
  15. バンコクの運河と乗合船、メコン・デルタの水上市場 — 現地の観光・交通資料、報道による。現状は変化が速い ★★ [B: 現代資料]
  16. 歌川広重『名所江戸百景』「中川口」、斎藤月岑ら『江戸名所図会』、森鴎外『高瀬舟』と神沢杜口『翁草』 — 原本・刊本は国立国会図書館、『高瀬舟』本文は青空文庫で読める。船宿・猪牙舟の評判は通説 ★★★ [S: 一次史料・評判は★★]
  17. 「馬一頭と舟一艘」の目安の計算、および「街道は人と書状の道、川は物の道」という整理 — 個々の数字は上記出典によるが、比の幅と論の運びは本サイトによる再構成である ★ [F: 再構成]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年10月22日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20261023 0727