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賭けごと — 賭場と貸元、そして富くじ賭けを商売にした者たちと、公認という抜け道

幕府は賭博を繰り返し禁じた——その反復自体が根絶できなかった証拠であることは、連作の第一回「禁令と、それでも続いた賭け」で見たとおりである。ではその賭博は、どこで、誰の手で開かれていたのか。この回では、幕府が正面から許した唯一の賭け富くじと、その裏に寄生した非合法の影富、賭場を経営体として仕切った貸元、そして十九世紀に強化される取り締まりを見ていく。そしてもう一つ——博徒を任侠として美化しないこと。彼らを義理人情の人として描いたのは、後の講談と浪曲と映画であって、当時の記録ではない。

しくみ① 富くじと影富 — 公認の賭けの裏に、非公認の賭けが立った

江戸には、幕府が正面から許可した賭けが一つだけあった。富くじである。寺社の堂塔修復費の調達という名目で寺社奉行の許可を得たもの(御免富)だけが合法だった。番号を書いた木札を箱に入れ、錐で突いて当たりを決める公開の抽選で、立会人がつく。

ここまでが表である。裏がある。影富とは、公認の富くじの当選番号を対象にして私的に金を賭ける行為である。富くじの札は高価で庶民が丸ごと一枚買うのは容易でなかったため、「今回の富で何番が当たるか」に少額を賭ける私設の賭けが立った。公認の抽選を、非公認の賭けが寄生的に利用したことになる。札を買う金がなくても賭けられるぶん参加のハードルが低く、公認事業の権威を非合法の営みが利用してもいた。幕府は影富を禁じる触を出したが、これもまた繰り返された(確度★★)。

そして最終的に、富くじそのものが天保13年(1842)に全面的に禁止された。天保の改革の一環である。合法の抽選が消えれば、それに寄生していた影富も対象を失う——裏を潰すために表ごと潰したという側面がある。行為の中身は変わっていないのに、ある時期は公共的な資金調達、別の時期は禁圧すべき悪弊とされた。変わったのは統治の側の判断である

富くじの抽選のようすを描いた磯田湖龍斎の錦絵
磯田湖龍斎による富くじの図(明和〜安永期頃)。富くじは寺社の修復費用を集める名目で許された、数少ない公認の賭けだった。同じ賭けでも、公に許されるものと禁じられるものの線引きがどこにあったのか——それを分けたのは行為ではなく、名目である。所蔵: アメリカ議会図書館。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

しくみ② 賭場と貸元 — 賭博は経営体だった

賭場は、開けば儲かる。理由は、賭場の主催者が勝負に参加しないからである。

賭場の収入源は、勝負のたびに勝った側から一定割合を取る寺銭(てらせん)である。誰が勝とうが負けようが、場を開いている側には一定の割合で金が落ちる。主催者の収入は確率の問題ではない——これが賭場が経営体として成立する理由であり、幕府が「場を開く行為」を重く見た理由でもある。

賭場を仕切る者を、一般に貸元あるいは胴元と呼ぶ。資金を出し、場所を用意し、参加者を集め、揉め事を処理し、手入れに備える。近代の記録や文芸に現れる「代貸」「三下」といった呼称はこの階層構造を指すが、江戸期にどこまで一般的だった語かは慎重を要する。博徒社会の用語として現在流通しているものの多くは、明治以降の記録や近代の任侠文芸を通じて定着した可能性がある(確度★★)。

賭場に集まる人材の供給源として重要だったのが無宿である。人別帳から外れた者——欠落した百姓、勘当された者、罪を犯して村を出た者には、帰る場所も公に守られる身分もない。身分の枠組みの外に置かれた者にとって、賭場の周辺は数少ない食い扶持だった。そして賭場は街道宿場、河岸、市の立つ場所など、人と金が集まるところに立つという単純な立地の論理を持っていた。

しくみ③ 取り締まりの強化 — 八州廻りと天保の改革

十九世紀に入ると、関東の農村部における治安の悪化が幕府にとって深刻な問題になる。関東は幕領・私領・寺社領が入り組んでおり、領主の境を越えた取り締まりができないという構造的な弱点があった。この弱点に対処するために設けられたのが関東取締出役(通称・八州廻り)である。文化2年(1805)の設置とされ、勘定奉行の支配下で、領主の別を問わず関東一円を巡回して取り締まる権限を与えられた。領域を越える犯罪に、領域を越える警察を当てたわけである。取締の主要な対象には無宿・博徒・徒党が含まれた(確度★★★)。文政期にはさらに改革組合村(寄場組合)が整えられ、村側にも協力が求められた。

そして天保の改革(天保12〜14年、1841〜43年)である。老中水野忠邦による統制は風俗・娯楽の全般に及び、寄席は大幅に削減され、芝居町は浅草の猿若町へ移され、前述の通り富くじが天保13年(1842)に全面禁止された。改革は水野の失脚(天保14年・1843)とともに多くが後退し、寄席の数も改革後に回復したが、富くじだけは復活しなかった娯楽は戻り、公認の賭けは戻らなかった——この差異は、幕府にとって賭博と娯楽が別のカテゴリーだったことを示している。同時に、非合法の賭場が改革によって消えたわけでもなかった(確度★★)。

幕末の博徒・清水次郎長の肖像
清水次郎長(山本長五郎、1820〜1893)。賭場を開いて寺銭を取る貸元は、単なる遊び人ではなく、場所と人と金を差配する経営者だった。なおこの肖像は明治期以降に描かれたもので、同時代の写生ではない。次郎長の名が講談で大きく育ったことも併せて留意されたい。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

江戸と今 — 線引きは、いまも動き続けている

現在の日本において、賭博は刑法で禁じられている。刑法185条が賭博罪、186条が常習賭博および賭博場開張等図利を定める。原則禁止という枠組みは、江戸から連続している

ところが、原則禁止のはずの日本には、合法の賭けが複数存在する。個別の特別法によって刑法の適用を除外するという仕組みである。競馬・競輪・競艇・オートレースなどの公営競技は戦後の個別法で合法化され、売上の一部を公益に充てる建て付けを持つ。宝くじは当せん金付証票法(昭和23年・1948)に基づき地方自治体が発売し、収益を公共事業に充てるという名目は御免富とほとんど同じ論理である。カジノは2018年のIR整備法により、区域を限定した設置枠組みが作られた。江戸において合法だったのは、寺社の修復という公的な目的を掲げた富くじだけだった。「公の目的に金が回るなら、賭けを許す」という判断の型が、二百年以上にわたって維持されている

そしてもう一つ、江戸の影富に相当する構造がある。パチンコである。遊技場での換金は店が直接行わず、特殊景品を介して別業者が買い取る、いわゆる三店方式をとる。この法的評価には長く議論があり、ここで断定的な判断は示さない(確度★★)が、公認の枠のすぐ外側に巨大な市場が成立するという構造は、影富と同じ位置取りである。近年はオンライン賭博の摘発も報じられており、場所を単位とする法が、場所の制約を超える技術にどう向き合うかという、八州廻りと同型の問題が続いている。

同じころ、世界では — 国家は宝くじを禁じ、そして自ら胴元になった

宝くじをめぐる国家の態度は、江戸の富くじと驚くほど似た振れ幅を描く。

イギリス政府は長く自ら宝くじの胴元だった。国家財政の一手段として国営宝くじを運営していたが、社会的批判の高まりを受けて1826年に廃止された。復活するのは1994年である。国家が自ら賭けを開き、やめ、また始めた——この振れ幅は、日本の富くじ禁止(1842)と戦後の宝くじ制度化(1948)の関係とよく似ている。

アメリカでは、植民地期から十九世紀にかけて、宝くじが公共事業の資金調達手段として広く用いられた。道路、橋、運河、そして大学の建設費が宝くじで賄われた例が知られている。これは御免富とまったく同じ発想で、徴税が難しい社会において、宝くじは自発的な税として機能した

並べてみれば、洋の東西で同じことが起きている。国家は賭博を悪徳として禁じる。同時に、自らが胴元になれば公益になると考える。この二つの態度は矛盾しているように見えて、実は同じ論理の裏表である——賭けから生じる利益を、誰が取るのかという問題なのだ。

アジアのいま — 禁止する国と、招く国

現代アジアにおける賭博の扱いは、国によって極端に分かれる。マカオは2002年にカジノ経営権が自由化され、収益規模で世界有数の集積地となった。シンガポールは長く賭博に厳格だったが方針を転換し、2010年に統合型リゾート(IR)を開業。自国民・永住者には入場料を課し、国内需要を抑える設計にした。韓国には複数のカジノがあるが大半が外国人専用で、自国民が入場できるのは廃鉱地域振興を目的とした江原ランド(2000年開業)のみとされる(確度★★)。一方、イスラム法圏や中国本土では賭博は明確に禁じられている(マカオ・香港は別法域)。

ここから見えるのは、アジアにおいても線引きの論理が江戸と同型であることだ。振興したい地域がある、財源が欲しい、観光客を呼びたい——そうした公的な目的が立てば、賭けは合法化されうる。行為の善悪ではなく、目的と受益者によって線が引かれる。そして合法の枠の外側には、影富がかつて富くじに寄生したように、必ず非合法の市場が残る。これは二百年前も現在も変わらない。

広告と評判 — 名が残るのは、伝説になった者だけである

賭場は非合法の経営体である。帳簿も広告も残らない。無宿、渡世人、奉公人、身を持ち崩した武家の次男坊——さまざまな身分の者が寺銭を払っていたと考えられるが、その一人ひとりの名は、原則としてどこにも記録されない

この空白のなかで、例外的に名が残る者がいる。賭場を仕切り、抗争を重ね、当局に捕らえられるところまで行った、ごく一握りの貸元だけである。国定忠治(1810年頃〜1850)は上州の博徒で、他の博徒集団との抗争の末に捕らえられ、嘉永3年(1850)に磔(はりつけ)に処された。磔は当時の刑罰体系のなかでも極刑であり、幕府が彼をどう位置づけていたかはこの一点で明らかである(確度★★、事績の細部には伝承が混じる)。

清水次郎長(1820〜1893)は駿河の博徒で、幕末に賭場と縄張りをめぐる抗争を重ね、明治以降は事業に転じた。だが次郎長の名を全国に広めたのは、天田愚庵が明治17年(1884)に著した『東海遊侠伝』であり、以後、講談と浪曲がこれを増幅した。次郎長が「侠客」として有名になったのは明治に入ってからであり、当時の実像と後年の講談が育てた人物像は区別して扱う必要がある(確度★★)。

この二人の名が残ったのは経営者として優れていたからではなく、刑死や講談の題材という、記録が生まれる特殊な回路を通過したからにすぎない。彼らの下で寺銭を払っていた無数の客、雇われていた者たち、賭場に流れ着いて姿を消した無宿——その大多数は存在したことさえ史料に残らない。歴史に残る博徒のイメージは、実際の参加者の代表ではなく、例外中の例外を写したものである

美化を解除するということ: 義理と人情に厚い博徒像は、明治以降の講談・浪曲、大正から昭和の大衆小説と映画が形成・定着させたものであり、当時の記録ではない。物語の魅力を否定する必要はないが、史料として扱ってはならない。そして、記録に残らなかった大多数の客の存在を忘れないこと——これが、この記事でもっとも守るべき一線である。
出典・確度 15件 最終確認 2026年8月27日 ひらく
  1. 富くじ(富突)が寺社奉行の許可を得た御免富のみ合法であり寺社の営繕費調達を名目としたこと、天保13年(1842)に全面禁止されたこと — 近世社会史の定説(本サイト富くじと同水準) ★★★ [A: 定説]
  2. 影富(公認の富くじの当選番号を対象とする私的な賭け)の存在と、それを禁じる触が繰り返し出されたこと — 近世風俗史で扱われる。規模を示す数値はない ★★ [B: 二次資料・規模不明]
  3. 賭場の収入源が寺銭(勝者から取る一定割合)であり主催者が確率によらず利益を得る構造だったこと、貸元・胴元という主催者とその階層構造 — 近世風俗史で広く記述される定説。「代貸」「三下」等の用語がどこまで江戸期に一般的だったかは慎重を要し、明治以降の記録・任侠文芸を通じて定着した可能性がある ★★ [B: 構造は定説/用語は後世の可能性]
  4. 無宿(人別帳から外れた者)が博徒集団の供給源となったこと — 近世社会史の定説(本サイト人別帳と無宿と同水準) ★★★ [A: 定説]
  5. 関東取締出役(八州廻り)の設置(文化2年・1805とされる)と、領主の別を問わず関東を巡回して無宿・博徒等を取り締まった権限、および文政期の改革組合村(寄場組合)の編成 — 近世法制史・治安史の定説 ★★★ [A: 定説]
  6. 天保の改革(天保12〜14年、1841〜43年、老中水野忠邦)における娯楽統制(寄席の削減、芝居町の猿若町への移転、富くじ禁止)と、水野失脚後も富くじが復活しなかったこと — 定説(本サイト寄席歌舞伎と同水準) ★★★ [A: 定説]
  7. 現行刑法185・186条(賭博・常習賭博等)、公営競技(競馬・競輪・競艇・オートレース)の戦後個別法による合法化、宝くじ(当せん金付証票法・昭和23年)、2018年IR整備法によるカジノ設置枠組み — いずれも現行法令。e-Gov法令検索で確認できる ★★★ [S: 現行法令]
  8. パチンコにおける景品交換のいわゆる三店方式 — 法的評価をめぐって長く議論があり、本記事では断定的な判断を示さない ★★ [B: 事実は周知/法的評価に議論]
  9. オンライン賭博(海外拠点の事業者を国内から利用する行為)をめぐる賭博罪の適用と摘発の動き — 報道による。事案ごとに評価が異なる ★★ [B: 進行中の論点]
  10. イギリス国営宝くじが1826年に廃止され、1994年に復活したこと、アメリカで植民地期から19世紀にかけて宝くじが道路・橋・運河・大学等の資金調達に用いられたこと — いずれも定説 ★★★ [A: 定説]
  11. マカオにおけるカジノ経営権の2002年の自由化、シンガポールの統合型リゾート二施設の2010年開業と自国民・永住者への入場料賦課 — 現代史・現行制度の事実 ★★★ [A: 公表事実/現行制度]
  12. 韓国において自国民が合法的に入場できるカジノが江原ランド(2000年開業)に限られるとされること — 広く報じられる制度上の事実だが、開業時期の表記には資料により異同がある ★★ [B: 制度は事実/年次に異同]
  13. 国定忠治(1810年頃〜嘉永3年・1850)が上州の博徒であり、嘉永3年に磔に処されたこと — 近世史・地方史の定説だが、生年および事績の細部には伝承的要素が混じる ★★ [B: 処刑は定説/事績に伝承混入]
  14. 清水次郎長(文政3年・1820〜明治26年・1893)が駿河の博徒であり、明治以降に事業へ転じたこと、および天田愚庵『東海遊侠伝』(明治17年・1884)が名を広めたこと — 定説。刊本は国立国会図書館デジタルコレクション等で確認できる ★★ [B: 人物は実在/伝記に脚色]
  15. 博徒を義理人情の侠客として描く像が明治以降の講談・浪曲、および近代の大衆小説・映画によって形成・定着したこと — 大衆文化史の定説。これらの物語を史料として扱ってはならない ★★★ [A: 定説]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月27日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20260902 1152