この記事が扱うのは、屋台や外食の華やかさではなく、もっと地味な話——毎日の膳に何が乗っていたかである。夜鳴き蕎麦や握り寿司、天ぷら、居酒屋が扱うのは「外で食べるもの」、百万都市の胃袋が扱うのは都市に流れ込む食料の物量である。ここではその手前、家の中の食卓と、それを支えた食材の流通・保存・調味料に焦点を絞る。追っていくと、行き着く先は皮肉な話になる——江戸の食文化が達成した最大の進歩の一つ、白米を毎日食べられるようになったことが、そのまま新しい病を生んだ、という話である。
組しくみ① 二食から三食へ — 白米が「主役」になるまで
江戸初期まで、武家でも町人でも一日二食が普通だったとされる。これが三食へと移っていったのは、元禄期(1688〜1704)以降のこととされる。転機の一つとして挙げられるのが明暦の大火(明暦3年〈1657〉)である。江戸の大半を焼いたこの火事のあと、復興工事のために大工・左官・鳶といった職人や人足が各地から集まり、肉体労働をする彼らには一日二食では足りなくなった。昼にも食事を出す必要が生まれ、これをきっかけに屋台や飯屋が増え、三食の習慣が広まっていった——という説明が広く紹介されている(確度★★、諸説あり)。
もう一つの転機は、白米が庶民の食卓に届くようになったことだ。舂米屋(つきごめや)や米搗き水車の普及で精米の手間が省け、江戸への廻米量が増えるにつれ、それまで雑穀混じりだった飯が、しだいに白い米へと置き換わっていく。「銀シャリ」という言葉が象徴するように、白い米を腹いっぱい食べられることは、江戸の庶民にとって一種の豊かさの証だった。
組しくみ② 江戸患い — 白い米が生んだ病
だが、この豊かさには裏があった。白米は玄米の外側にある胚芽と糠の層を取り除いたもので、ビタミンB1(チアミン)の多くはその層に含まれている。白米ばかりを食べ続けるとビタミンB1が不足し、脚気(かっけ)——手足のしびれやむくみ、重症化すれば心不全にいたる病——を発症する。江戸ではこれが「江戸患い(江戸わずらい)」として恐れられた。
興味深いのは、この病が地方から江戸に出てきた武士や大名に多かったとされる点である。参勤交代で江戸に滞在するあいだに白米中心の食事へと切り替わり、体調を崩す者が続出した。ところが故郷へ帰り、雑穀混じりの食事に戻ると自然に治ったため、「江戸の水が合わない」病として語られた——原因が栄養にあるとはまだ誰も知らなかった時代の話である。将軍の死因についても脚気が関わったとする説があり、十三代家定・十四代家茂などの名が挙げられることがあるが、死因は複合的とみる見方もあり、断定はできない(確度★★)。
組しくみ③ 一汁一菜 — 基本の膳と、調味料の東西差
白米が普及したといっても、日々の膳はいたって質素だった。基本形は一汁一菜——飯に汁物、おかずが一品、それに香の物(漬物)を添える程度である。ここに欠かせないのが調味料で、掛け買いで日々買い足す味噌・醤油・酢・味醂が、味の骨格をつくっていた。
この調味料には、はっきりとした東西差があった。江戸をはじめとする関東では、下総の野田や銚子で造られる濃口醤油が広まり、色濃く塩味のはっきりした味付けが好まれた。上方(京・大坂)では、色の淡い薄口醤油と白味噌を使い、素材の色や風味を活かす味付けが中心になる。当初は「下り醤油」として上方の醤油が江戸に運ばれていたが、江戸後期には野田・銚子産の地廻り醤油が下り醤油を圧倒し、関東の食文化を関東自前の調味料が支えるようになった。
組しくみ④ 精進と肉食の忌避、それでも食べたもの
仏教の影響と、殺生を忌む建前から、表向き獣肉を食べることは避けられていた。だが建前と実態は別である。猪の肉は山鯨(やまくじら)と呼び換えて売られ、鹿肉とあわせて滋養強壮の「薬食い」として、冬場に食べる者は少なくなかった。鯨は魚と同じ扱いで、獣肉忌避の枠の外に置かれ、赤身から脂身、内臓まで余さず食べられた。表向きの建前をすり抜ける言い換えの知恵——「薬」「鯨」という呼び方そのものが、忌避と欲求のあいだの妥協点だったといえる。
組しくみ⑤ 保存という技術 — 干す・漬ける・塩蔵
冷蔵の手段がない時代、食材を先の季節までもたせる技術は、食文化の根幹をなしていた。干す・漬ける・塩に漬け込む——この三つが基本である。四季の変化に沿って、保存の作業は一年を通じて途切れなかった。
保存食は、単なる非常食ではない。糠漬けや塩引き鮭のように、保存の過程そのものが独自の風味を生み出し、日々の菜の主役になっていった。保存は制約であると同時に、料理の技術そのものでもあった。
組しくみ⑥ 初物と料理本 — 熱狂を煽ったメディア
「初物七十五日」——季節の初物を食べると寿命が七十五日延びる、という言い伝えが広く信じられていた。なかでも初鰹への熱狂は突出しており、値が吊り上がっても競って買い求める者が絶えなかったと伝えられる。度を越した初物志向は幕府にとっても放置できない問題で、元禄期には野菜ごとに「これより早くは売ってはならない」出荷解禁日を定める触書が出されたとする記録が紹介されている。度重なる奢侈禁止令・倹約令の一環とみられるが、効果は乏しく、抑制の触書はその後も繰り返し出されたとされる(確度★★、伝聞的な記録に基づく)。
料理そのものもメディアになった。天明2年(1782)に刊行された『豆腐百珍』は、豆腐だけで百種の料理法を紹介するという趣向で評判を呼び、江戸の出版文化に一つの型を作った。このヒットを受けて、鯛百珍・甘藷百珍など、一つの食材で百種の料理を並べる「百珍もの」が相次いで刊行された。料理本の流行そのものが、食への関心を煽る広告として機能していたことになる。
今江戸と今 — 精製された食べ物と、見えない欠乏
江戸患いは、決して過去だけの話ではない。現代の生活習慣病の多くも、精製された糖質や脂質を豊富に摂れるようになったこと——かつては「豊かさ」の証だったはずのことが、そのまま健康リスクに転じるという構図を持っている。白米に偏った食事から玄米や雑穀を見直す動きや、一汁一菜という質素な献立が「バランスの良い食事」として再評価される流れは、江戸の食卓への回帰と呼んでもおかしくない。豊かさの形が変わっても、「摂りすぎ」と「欠乏」が表裏一体である構図は変わっていない。
通説への留保: 「江戸の食は質素で健康的だった」という語られ方は、半分は正しく、半分は美化である。一汁一菜という基本形はたしかに質素だが、白米への偏りは実際に病を生んでいた。現代人が江戸の食に憧れるとき、そこにある種のノスタルジーが混ざっていることは意識しておいたほうがいい(確度★★)。
史同じころ、世界では — 原因の見えない欠乏症
栄養素の欠乏が病を引き起こすという理解が乏しかったのは、江戸に限った話ではない。大航海時代からナポレオン戦争期にかけて、長期の航海に出た船員は壊血病(ビタミンC欠乏)に苦しみ、多くの死者を出した。イギリスの海軍医ジェームズ・リンドは1747年、柑橘類を与えた乗組員だけが回復するという臨床試験を行い、原因物質(ビタミンC)が特定されるよりずっと前に、経験的な対処法にたどり着いている。江戸患いも壊血病も、「何が足りないか」より先に「何をすれば治るか」が分かったという点で、よく似た構図を持つ。
亜アジアのいま — 精米への依存は、いまも続く
精米を主食の中心に据える食生活は、いまも東・東南アジアの広い地域で続いている。精米への依存度が高く、副食が乏しい条件が重なる地域では、現代でも脚気が報告されることがあり、栄養関連の国際機関がその発生を注意喚起してきた。白米という「豊かさの象徴」が、条件次第で今なお欠乏症のリスクになりうるという事実は、江戸患いが決して過去だけの逸話ではないことを示している(確度★★)。
報届かなかったところ — この記事が語れていない食卓
ここまで書いてきたのは、おおむね江戸という都市の、記録を残せた層の食卓である。史料が偏っているので、そう書くしかない。だが江戸時代の日本に住んでいた人の大半は、都市の住人ではなかった。
まず村の食卓が抜けている。年貢を米で納める村では、穫れた米の多くが手元に残らない。日々口に入るのは稗(ひえ)・粟(あわ)・黍(きび)といった雑穀や、大根・芋を混ぜて嵩を増した飯であることが多かった。「白米が病を生んだ」という本記事の核は、白米を日常的に食べられた人にしか当てはまらない。同じ時代に、白米が足りずに痩せた人がいる。
次に地域差が均されている。海から遠い山間の村と、漁村と、城下町では、口に入る物がまるで違う。醤油の東西差には触れたが、それは記録が残りやすい商品の話であって、自家製の味噌や漬物の多様さは、ほとんど文字になっていない。
さらに飢えた年が書けていない。天明・天保の飢饉のような年、食卓は「文化」と呼べるものではなくなる。草の根、木の皮、種籾にまで手が伸びた記録がある。平時の食文化を語ることと、飢饉を語ることは、同じ時代の同じ人々についての話でありながら、まったく別の話になる。農業の実際で囲籾や救荒作物に触れているのは、その裏返しである。
最後に、誰が作っていたかが書けていない。この記事は「何を食べたか」の話に終始した。竈の前に立ち、水を汲み、薪を割り、火加減を見ていた人——その多くは女性であり、奉公人であった——の労働は、料理本にも随筆にもほとんど残っていない。食文化という言葉は、しばしば作る手を消す。
出典・確度
- 一日二食から三食への転換(元禄期以降)と、明暦の大火(1657)後の復興労働による昼食需要の拡大説 — 食文化史の概説で広く紹介される。転換の主因については諸説あり ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 白米食の普及と脚気(江戸患い)の流行、ビタミンB1欠乏という医学的機序 — 農林水産省・栄養学の解説等で扱われる定説 ★★★ [A: 定説]
- 参勤交代で江戸に滞在した武士・大名に脚気が多かったとされること、将軍の死因に脚気が関わったとする説(十三代家定・十四代家茂など) — 概説書で広く紹介されるが、死因は複合的とみる見方もあり断定はできない ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 鈴木梅太郎によるオリザニン(ビタミンB1)発見(明治43年〈1910〉) — 日本の医学史・栄養学史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 一汁一菜という基本形、味噌・醤油・酢・味醂の普及、関東濃口醤油(野田・銚子)と上方薄口醤油・白味噌の東西差 — 食文化史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 獣肉忌避の建前と「山鯨(猪)」「薬食い」「鯨食」の実際 — 食文化史・民俗史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 干す・漬ける・塩蔵といった保存技術と季節ごとの仕込み(土用干し・寒仕込みなど) — 食文化史・民俗誌の定説 ★★★ [A: 定説]
- 「初物七十五日」という言い伝えと初鰹への熱狂 — 民俗・食文化史で広く紹介される慣用句・逸話 ★★ [B: 二次資料・逸話]
- 元禄期の初物早出し禁止令(野菜ごとの出荷解禁日を定めた触書) — 郷土史・食文化史の紹介記事で言及されるが、原史料への直接の照合は本記事では行っていない ★ [C: 伝聞的記録・要検証]
- 『豆腐百珍』(天明2年〈1782〉刊)と、これに続く「百珍もの」(鯛百珍・甘藷百珍など)の流行 — 近世出版文化史の定説 ★★★ [A: 定説]
- ジェームズ・リンドによる壊血病の臨床試験(1747年)とビタミンC欠乏 — 医学史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 現代でも精米への依存度が高い地域で脚気が報告されること — 栄養学・公衆衛生分野で一般に知られる知見。具体的な発生地域・件数は年により変動する ★★ [B: 二次資料]
- 「江戸の食は質素で健康的だった」という通説の検証 — 特定の一次史料ではなく、上記各項目から本サイトが組み立てた整理 ★★ [F: 再構成]