江戸の一日を再現するには、まず時計を捨てなければならない。この時代の一刻は、季節によって長さが変わる。夏の昼の一刻は長く、冬の昼の一刻は短い。日の出と日の入りを基準に、昼と夜をそれぞれ六等分していたからである。
組しくみ — 不定時法という時間感覚
江戸の時刻は不定時法で数えた。日の出の少し前を「明六つ(あけむつ)」、日の入りの少し後を「暮六つ(くれむつ)」とし、その間の昼を六等分、残る夜を六等分する。したがって夏は昼の一刻が長く夜の一刻が短い。冬はその逆になる。時計の針ではなく、太陽が時間を決めていた。
時を知らせたのは時の鐘である。本石町(日本橋)をはじめ市中に置かれた鐘撞堂が鐘を打ち、その音の届く範囲の町から「鐘撞料」を集めていた。時刻は買うものでもあった。
組しくみ② 明六つから夜四つまで
ある長屋の店子——大工の父、内職をする母、通いの子ども——の一日を追ってみる。以下は個々の家で当然異なるが、諸史料から組み立てた典型例である(確度★★)。
今江戸と今 — 何が変わり、何が残ったか
変わったのは、夜の値段である。江戸では灯りが高くついたので、日が落ちれば活動が縮んだ。電灯がそれを覆し、いま私たちは夜を昼のように使える。江戸の一日が短く感じられるとすれば、それは怠けていたからではなく、暗さが物理的な制約だったからだ。
一方、残ったものも多い。「おやつ」という言葉、朝に炊いて一日食べる習慣の名残(冷や飯・茶漬け)、銭湯、そして買い置きせず毎日少しずつ買う暮らし方は、いまも都市の一人暮らしやコンビニ利用に形を変えて生きている。
不定時法から定時法(現在の時刻制度)への切り替えは明治5年(1872)の改暦とともに行われた。太陽ではなく時計に合わせて働く生活は、そこから始まる。
史同じころ、世界では — 鐘が支配する町
時刻を鐘で知らせるのは江戸に限らない。中世以来のヨーロッパの都市でも、教会や市庁舎の鐘が労働と祈りの時間を区切っていた。ただし機械時計が普及した後のヨーロッパは定時法——一時間の長さが年間を通じて同じ——へ早くに移っており、季節で伸び縮みする江戸の時刻とは考え方が違う。
そして19世紀、産業革命が時間の意味を変えた。工場の始業時刻が労働者の生活を規定し、鉄道が「どこでも同じ時刻」を必要として標準時が生まれる。太陽に合わせる時間から、機械に合わせる時間へ——この転換を、日本は明治になって一気に経験することになる。
亜アジアのいま — 路地の一日
早朝に市場が立ち、屋台が朝食を売り、日中は路地で内職や商いが続き、夕方に人が水浴びをして、夜は屋台と語らいで賑わう——ハノイやバンコクの路地の一日は、江戸の長屋の一日と驚くほど順序が似ている。暮らしが家の中で完結せず、路地に溢れ出しているという構造が共通しているからだろう。
報広告と評判 — 一日が音でできていた
この一日を通して聞こえるのは、ほとんどが音の情報である。時の鐘が時刻を、棒手振りの売り声が商品を、夜鳴き蕎麦の風鈴が屋台の到来を、木戸番の拍子木が夜の見回りを知らせる。文字が読めなくても、耳だけで一日の段取りがついた。
看板と暖簾が視覚の広告なら、売り声と鐘は聴覚の情報網である。江戸の生活情報は、この二つでほぼ足りていた。
出典・確度
- 不定時法と時の鐘 — 江戸の時刻制度は概説書・博物館解説で一致する定説。明治5年(1872)の改暦にともなう定時法への移行も定説 ★★★ [A: 定説]
- 喜田川守貞『守貞謾稿』— 江戸の生業・食事・湯屋・木戸などの風俗記述。国立国会図書館デジタルコレクションで原本公開 ★★★ [S: 一次史料]
- 一日二食から三食への移行 — 江戸中期以降に三食が広まったとされるが、時期・地域・階層により差があり、理由(灯火の普及、労働形態の変化など)にも諸説がある ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 「おやつ」の語源が八つ時の間食であること — 広く流布し辞典類にも載るが、俗説的な要素を含む ★★ [B: 通説]
- 朝に一日分を炊く習慣、木戸の夜四つ締め、木戸番の見回り — 概説で広く扱われるが、運用は町により異なった ★★ [B: 二次資料]
- 本記事の「一日の流れ」は特定の一次史料の記録ではなく、複数の史料と概説から組み立てた典型例である。実際の暮らしは職業・家族構成・季節で大きく異なった ★★ [F: 再構成]
- ヨーロッパにおける定時法・標準時の成立と鉄道の関係 — 技術史・社会史の定説 ★★★ [A: 定説]