江戸時代、生まれた子のうち相当数が大人になる前に死んだ。宮参りや七五三といった儀礼は、その生存を確かめる手続きだった——という話を前回は追った。だが江戸の子育てには、目を背けたくなる事実もある。生まれた子を育てずに死なせる間引きと、生まれる前に妊娠を絶つ堕胎である。同時に、生き延びた子どもの多くは、現代よりずっと早い年齢で学び始め、働き始めた。この記事では、江戸の子育てのもっとも重い部分と、子ども時代がいつ、どう終わるかを追う。
組しくみ④ 間引きと堕胎 — 記録に残らないことを、どう書くか
ここから重い話に入る。江戸時代には、生まれた子を育てずに死なせる間引きと、生まれる前に妊娠を絶つ堕胎が行われていた。これは事実である。だが実態と規模については、断定できることが極めて少ない。
断定できない理由は単純で、記録が残らないからである。間引きも堕胎も帳面に書かれない。宗門改帳に載る前に消える命は、そもそも数えようがない。だから「江戸時代に間引きは何件あったか」という問いには、原理的に答えが出ない。研究者は間接的な手がかり——男女比の不自然な偏り、出生間隔の異常な長さ、藩の禁令や施策の存在——から推測するが、いずれも推測の域を出ない(確度★)。
それでも確実に言えることがいくつかある。
- 諸藩が禁令と対策を出した — 仙台藩、水戸藩、会津藩をはじめ、東北・関東の諸藩は18世紀後半から19世紀にかけて、間引きを禁じる触を出し、あわせて赤子養育仕法と呼ばれる救済策を実施した。妊娠の届出を求め、出産した貧しい家に養育費(子育て金)や米を給付する仕組みである。禁令だけでなく給付を伴った点が重要で、藩の側が「貧しさが原因である」と認識していたことを示す。
- 藩が対策を打った動機は、人口減による年貢収入の減少にもあった — 人道的な理由だけではない。百姓が減れば田が荒れ、年貢が減る。人口は藩財政の基盤だった。
- 戒めの絵が伝わっている — 北関東などの寺社には、間引きを戒める図(子返しの絵馬・絵図)が奉納された例が伝わる。禁令と並行して、宗教的な戒めからも抑止が試みられていた。
- 堕胎を業とする者がいた — 「中条流」を称する堕胎の医者が町で看板を出していた。取り締まりの触が出されることもあったが、根絶されてはいない。
間引きが行われた理由として挙げられるのは、貧困、飢饉、家の相続戦略(分割すれば持たない土地を守るため子の数を抑える)、そして生まれた子の性別などである。ただし、どの理由がどれだけの比重を占めたかを数量的に示す史料は無い(確度★)。
ここで避けるべきは二つの単純化である。一つは「江戸の農村では間引きが当たり前だった」と誇張すること。もう一つは「日本の伝統的家族は子を大切にしてきた」と美化して、事実を無かったことにすること。どちらも史料の裏付けを欠く。事実として言えるのは、間引きと堕胎が行われ、藩がそれを問題として認識し、禁令と給付の両方で対応した、ということまでである。
関連して、捨て子も都市の問題だった。幕府は捨て子を禁じるとともに、捨て子を見つけた場合の扱いを定め、発見された町や地主に養育の責任を負わせる触を繰り返し出している。育てられない者が子を手放し、その子を町が引き取るという回路が、制度として存在したことになる(確度★★)。
組しくみ⑤ 育児の知識 — 育児書はすでにあった
江戸時代には、育児と教育の指南書が刊行され、読まれていた。文字が読める層が厚かったことの副産物である。
貝原益軒が宝永7年(1710)に著した『和俗童子訓』は、子どもの教育について年齢を追って説いた書で、幼少期からの躾、読書の順序、女子の教育などに及ぶ。同じ益軒の『養生訓』(正徳3年・1713)と合わせて、身体と教育の両面から生き方を説く書として広く読まれた。
より医学寄りのものとしては、香月牛山の『小児必用養育草』(正徳4年・1714)がある。乳児の育て方、乳のやり方、病気への対処などを具体的に記した小児の養育書で、当時の小児医療と育児の知識水準を示す資料になっている。
これらの書物の内容には、現代医学から見て誤りも多く含まれる。だが重要なのは、育児が「教わるもの」として書物になっていたという事実のほうである。近所の年寄りの口伝えだけでなく、印刷された知識が流通していた。貸本屋が本を運び、寺子屋が読める人を増やしていた社会の姿がここにも現れる。
もっとも、これらの書を実際に手にしたのは商家や富裕な農家の層が中心で、裏長屋の日雇いの家に育児書があったとは考えにくい。知識の流通にも階層差があった(確度★★)。
組しくみ⑥ 学ぶ年齢、働く年齢 — 子ども時代はいつ終わるか
生き延びた子は、やがて学び、そして働き始める。その年齢は現代よりずっと早い。
つまり、江戸の子どもは十歳前後で家を出て働き始めることが珍しくなかった。現代の感覚では小学校四年生の年齢である。奉公は労働であると同時に、住み込みで技能と行儀を身につける教育でもあり、実家にとっては口減らしでもあった。三つの機能が分かちがたく重なっている。
ただし、江戸の子どもが働くだけだったわけではない。凧、独楽、羽根つき、竹馬、おはじき、貝合わせ。玩具を売る商いが成立し、錦絵には子どもの遊ぶ姿が繰り返し描かれた。花見や祭りには子どもが加わり、寺子屋にも遊びの時間があった。子ども時代が存在しなかったのではなく、短かったというのが正確である。
今江戸と今 — 貧困は形を変え、線引きは制度がする
間引きの主な動機は貧困だった。現代の日本に間引きは無いが、子どもの貧困という問題そのものは残っている。厚生労働省の「国民生活基礎調査」は子どもの相対的貧困率を継続して調査しており、ひとり親世帯を中心に、経済的な困難が子どもの生活・進学に影響する構図がなお報告されている。江戸の間引きが「食わせられない」という切実な計算の産物だったとすれば、現代の子どもの貧困は、その計算がもう命を左右しない代わりに、教育や機会の格差というかたちで残った版だといえる。
虐待からの保護も制度化された。児童虐待防止法(2000年制定)は児童相談所の権限と通告義務を定め、行政が家庭に介入する根拠を初めて明確にした。江戸には赤子養育仕法のような給付はあっても、強制的な保護に相当する仕組みは無かった。労働の側も変わり、学校教育法は満六歳から満十五歳までを義務教育の期間と定め、労働基準法は原則として満十五歳未満の児童の使用を禁じている。江戸で十歳前後が当たり前だった奉公の開始年齢は、現代では法律によって明確に禁じられている。
史同じころ、世界では — 捨て子院と児童労働
子を手放す、あるいは働かせるという選択は、江戸だけのものではなかった。18〜19世紀のヨーロッパも、同じ条件の下にあった。ロンドンでは1741年、船長トマス・コーラムの尽力でファウンドリング・ホスピタル(捨て子養育院)が開設された。入所希望者が定員を大きく上回り、くじで受け入れを決めた時期もあったが、施設内の乳幼児死亡率は高かった。江戸の捨て子が町や地主に引き取らせる形で処理されたのに対し、ロンドンは専用の施設という形で受け皿を作った点が異なる。
フランスの都市では、生まれた子を農村の乳母(nourrice)に預けて育てさせる里子の習慣が広く行われたが、遠隔地に預けられた乳児の死亡率は高く、18世紀後半には社会問題として論じられた。「子を手放す」という選択が、日本にもヨーロッパにも別の形で存在したことになる。そして産業革命期のイギリスでは工場と炭鉱で子どもが働き、1833年の工場法をはじめとする立法が児童労働の年齢と時間を段階的に制限していく。産業革命の現場では、住み込みで衣食住を保証された江戸の丁稚奉公とは比較にならない過酷さの労働が行われていた。
亜アジアのいま — 子守は形を変えて残っている
国際労働機関(ILO)とUNICEFが共同で公表する推計によれば、世界にはなお億単位の児童労働に従事する子どもがいるとされ、その相当数がアジアにも存在する。農業や家内労働、家業の手伝いが中心で、江戸の丁稚奉公のような住み込みの年季奉公とは形が異なるが、子どもの労働力が家計の一部として組み込まれているという構造は共通している。子守り奉公に相当する光景も残り、家庭内労働や年少者の家事従事はいまも各地で就学の妨げとして報告され、とくに女児に偏る傾向が指摘される。幼い姉が幼い弟妹を背負うという構図は、江戸の絵に描かれたものと同じである。
一方で、義務教育の普及そのものはアジア全域で大きく進んだ。ユネスコの統計では、初等教育の就学率は多くの国で九割を超える水準に達している。寺子屋への入門が数え六〜七歳という慣習でしかなかった江戸に対し、現代は「何歳から学校に通うべきか」を法律が定め、その実現を国際機関が数値で追跡する時代になっている。
報広告と評判 — 奉公先も、師匠も、評判で選ばれた
子をどこへ預け、どこへ奉公に出すか。この判断もまた、制度ではなく評判に支えられていた。寺子屋の師匠は、手が早い、字が上手い、月謝を無理に取らないといった井戸端の噂で選ばれた。医者を選ぶのと同じく、寺子屋には認可も検定も無く、師匠の質は玉石混淆だった。
奉公先を探す段になると、口入れ屋(人宿)という仲介の商いが加わる。奉公人を求める商家と奉公先を探す家をつなぎ、条件と評判をすり合わせる役を担った。ただし紹介がすべて誠実だったわけではなく、劣悪な奉公先への斡旋や、給金を巡る揉め事も伝えられている(確度★★)。仲介者への信頼もまた、確かめる術のない評判の上に成り立っていた。
結局のところ、子どもをどこに預けるかという判断は、免許も検定もない評判という装置に、繰り返し委ねられていた。医者を選ぶときも、薬を選ぶときも、奉公先を選ぶときも、江戸の庶民が頼れたのは同じ一つの仕組み——近所の噂——だけだったことになる。
出典・確度 18件 最終確認 2026年8月27日 ひらく
- 間引き・堕胎が行われたこと、およびその規模が史料上確定できないこと — 前者は定説、後者は史料の性格上避けられない限界。件数・比率を示す数値はいずれも推測である ★ [C: 事実は定説/規模は不確定]
- 諸藩(仙台藩・水戸藩・会津藩など)の間引き禁止令と赤子養育仕法(妊娠届出・子育て金の給付) — 近世史の定説。関係文書は各県の文書館・国立公文書館等で扱われる。施策の内容・時期は藩ごとに異なる ★★★ [A: 定説]
- 北関東などに伝わる間引きを戒める絵図・絵馬 — 民俗資料として国立歴史民俗博物館ほかで紹介される。伝来する点数は限られ、分布の一般化はできない ★★ [B: 資料は実在/一般化に留保]
- 「中条流」を称する堕胎業と、それに対する幕府の取り締まり — 近世風俗史で扱われる。実態の規模は不明 ★★ [B: 二次資料]
- 幕府による捨て子の禁止と、発見した町・地主に養育責任を負わせた触 — 近世法制史で扱われる。触の年次・文言は複数あり、運用も一様でない ★★ [B: 二次資料・複数の触]
- 貝原益軒『和俗童子訓』宝永7年(1710)刊 — 刊本は国立国会図書館デジタルコレクションで公開 ★★★ [S: 一次史料]
- 香月牛山『小児必用養育草』正徳4年(1714)刊 — 近世の代表的な小児養育書。刊本はNDLデジタルコレクション等で確認できる ★★★ [S: 一次史料]
- 寺子屋への入門年齢が数え6〜7歳前後であったこと — 教育史の定説(本サイト寺子屋と同水準) ★★★ [A: 定説]
- 商家の丁稚奉公が10歳前後で始まったこと、職人の弟子入り、年季奉公の構造 — 近世社会史の定説。ただし開始年齢・年季の長さは業種・店・地域で幅がある ★★ [B: 定説だが幅あり]
- 子守り奉公(年少の女児が住み込みで子守として働き、給金より食事と仕着せが主だったこと) — 近世〜近代の民俗・社会史で広く報告される。金額水準を示す確かな一次史料は乏しい ★★ [B: 二次資料・数値は不確定]
- 元服(男子15歳前後で前髪を落とし幼名を改める)とお歯黒・眉剃りの習俗 — 定説だが、年齢・作法は身分と地域で差がある ★★ [B: 定説だが差が大きい]
- 現行の子どもの相対的貧困率調査(厚生労働省「国民生活基礎調査」)、児童虐待防止法(2000年)、学校教育法の義務教育年齢、労働基準法の年少者使用制限 — いずれも厚生労働省等が所管する現行制度・現行統計 ★★★ [A: 現行制度・公的統計]
- ロンドンのファウンドリング・ホスピタル(1741年設立、トマス・コーラム) — イギリス社会史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 18世紀フランスにおける乳母への里子の慣行と、その高い乳児死亡率 — ヨーロッパ社会史の定説。地域・階層による差がある ★★★ [A: 定説]
- イギリス産業革命期の児童労働と1833年工場法以降の規制 — 定説 ★★★ [A: 定説]
- 国際労働機関(ILO)・国連児童基金(UNICEF)による児童労働の世界推計 — ILO公式サイトおよびUNICEF公式サイトで公表される共同推計。数値は調査年により変動する ★★★ [A: 国際機関]
- ユネスコ統計による初等教育就学率の上昇 — ユネスコ(UNESCO)統計局が公表する国際統計 ★★★ [A: 国際機関]
- 口入れ屋(人宿)による奉公人の仲介業と、斡旋を巡る問題の存在 — 近世社会史・労働史で扱われる。実態の規模や不正の頻度を示す定量的史料は乏しい ★★ [B: 二次資料]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月27日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。