江戸時代の医療をひとことで言い当てる事実がある。医者になるのに免許は要らなかった。国家試験も、免許状も、登録簿も存在しない。今日から医者だと決めて看板を掲げれば、その日から医者である。腕の良し悪しを判定する制度が無い以上、それを判定したのは近所の評判だけだった。この一点を押さえないと、江戸の医療の話は輪郭を結ばない。この記事ではまず、医者という職業そのものの成り立ちを追う。薬や治療の中身は次回、疫病と貧困は次々回で扱う。
組しくみ① 免許がない — 誰でも医者を名乗れた
幕府は医業を営む者に対して、資格の付与も開業の許可も行わなかった。医師免許制度が日本に成立するのは明治に入ってからで、明治7年(1874)の医制公布、そして明治16年(1883)の医術開業試験の規則整備を経て、ようやく「試験に通った者だけが医者を名乗れる」体制になる。江戸時代はその手前、二百六十年余りにわたって資格なしの医療が続いた社会だった。
では医者はどうやって医者になったのか。経路はおおよそ三つある。一つは家業を継ぐこと。親が医者なら子も医者で、これが最も多い。二つめは弟子入り。名の通った医家に住み込み、薬を刻み、往診に付き、数年かけて覚える。三つめが独学である。医書を読み、薬の名を覚え、看板を出す。三つめが可能だった、という点にこの制度の性格が集約されている。
医者は見た目で分かった。多くは剃髪し、十徳という上っ張りを羽織る。身分の枠組みの中で医者・僧侶・儒者は「身分の外」に置かれる扱いを受けることがあり、町人でありながら苗字を称し帯刀を許される例もあった。腕一つで身分の壁を越えうる数少ない職業だったといえる。
当然、質は玉石混淆になる。藪医者という語が江戸期に定着し、落語や戯作で繰り返し笑いの種にされたのは、腕の悪い医者が現実に珍しくなかったからである。語源には諸説あって定まらない(確度★)。医者を選ぶ側にできることは、近所の評判を聞き、効かなければ替えることだけだった。
組しくみ② 漢方と蘭方 — 医学は一つではなかった
「漢方」という呼び名は、後から入ってきた「蘭方」と区別するために使われるようになった語である。つまり江戸中期までは、医学といえば中国由来の医学のことだった。
蘭方の決定的な転回点は二つある。一つは宝暦4年(1754)、山脇東洋が京都で刑死者の腑分け(解剖)に立ち会い、その観察を『蔵志』として宝暦9年(1759)に刊行したこと。もう一つは安永3年(1774)、前野良沢・杉田玄白らがオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を訳出した『解体新書』の刊行である。書物の記述と実際の臓腑を突き合わせるという方法そのものが、ここで日本の医学に入った。
ただし庶民の日常医療は、幕末に至るまで圧倒的に漢方だった。蘭方は都市の一部の医家と、外科・眼科・種痘といった特定の領域で力を発揮したのであって、長屋の住人が腹をこわして呼ぶのは近所の町医者であり、出てくるのは煎じ薬である。
診療科の分化は進んでいた。内科にあたる本道、外科、眼科、歯と口を診る口中科、小児科、産科・婦人科にあたる女科など、看板には専門が書かれた。とくに眼科と口中科は専門医が多く、大道で歯を抜く者、目薬を売る者まで含めれば、医療の裾野はかなり広い。
組しくみ③ 町医者と御典医、そして小石川養生所
医者は仕える先で大きく二つに分かれた。幕府や藩に召し抱えられた医者と、町で開業する町医者である。前者には将軍の身近に侍る奥医師、江戸城中に詰める番医師などの序列があり、朝廷の医官である典薬頭は半井家・今大路家が世襲した。幕府は寛政3年(1791)、多紀家の私塾であった躋寿館(せいじゅかん)を官立化して医学館とし、幕府医官の養成機関に据えている。
だがここで注意が要る。医学館は開業の要件ではない。学んだ者に格式は付いたが、学ばなかった者が医業を禁じられたわけではない。教育機関はあったが免許制度は無かった、という組み合わせがこの時代の特徴である。
庶民が公費で治療を受けられる場は、事実上たった一つだった。小石川養生所である。享保7年(1722)、町医者・小川笙船が目安箱に投じた建議を将軍吉宗が採り上げ、小石川御薬園(現在の小石川植物園の地)に設けられた施薬・救療の施設で、貧しい病人を無料で収容した。収容規模は開設当初が四十人程度、その後百人規模に拡張されたとされるが、時期により増減があり数字には幅がある(確度★★)。
幕末になると、種痘を中心に新しい医療施設が生まれる。大坂では緒方洪庵らが嘉永2年(1849)に除痘館を開き、江戸では安政5年(1858)に蘭方医たちが出資してお玉ヶ池種痘所を設立した。種痘所はまもなく幕府の管轄下に入り、西洋医学所へと発展して、明治以降の医学教育の源流の一つになる。この流れは次々回・疫病と貧困で改めて扱う。
今江戸と今 — 免許制度は何のためにあるか
現代の日本で医師になるには、医学部で六年学び、医師国家試験に合格し、厚生労働大臣の免許を受けなければならない。免許を持たずに医業を行えば医師法十七条違反である。この一線は、江戸時代とちょうど反対側に立つ。免許制度の本質は、患者が医者の腕を自分では判定できないという情報の非対称にある。専門知識の差が大きすぎる市場では、事前に一定の水準を保証する仕組みが要る。江戸にはそれが無く、代わりに評判という遅くて不完全な仕組みだけで回っていた。
そして現代では、医者の数そのものが正確に把握されている。厚生労働省の「医師・歯科医師・薬剤師統計」によれば、届出のあった医師数は三十数万人規模にのぼる。免許制度は患者を守るだけでなく、国がどれだけの医療資源を持っているかを把握する手段でもある。江戸には、この意味での「医者の数」という発想自体が成立しなかった。
史同じころ、世界では — 資格の無い医療は各地にあった
免許なしで医療が行われていたのは日本だけではない。18〜19世紀のヨーロッパでも、資格の実態は今から見ればかなり緩い。
イギリスでは、大学教育を受けたフィジシャン(内科医)、徒弟修業から出たサージャン(外科医)、薬を扱うアポセカリ(薬剤師)という三層が、それぞれ別の団体に属して並立していた。庶民が実際にかかったのは多くの場合アポセカリで、薬を売りながら診療もするという、江戸の町医者に似た存在である。制度の統合が進むのは1858年の医療法(Medical Act)による医師登録制の開始以降であり、これは日本の明治の医制よりわずか十六年早いだけである。
亜アジアのいま — 伝統医療にも国家資格がある
江戸の医者に免許が要らなかったのとは対照的に、現代アジアの伝統医療の多くは国家資格として明確に制度化されている。中国では中医(中国伝統医学)を業とするのに国家中医薬管理局が管轄する中医執業医師資格が要り、韓国では西洋医学の医師と伝統医学の韓医師が最初から別の国家資格に分かれ、韓医科大学で六年学んで国家試験に合格しなければならない。インドでもアーユルヴェーダ医(BAMS資格)がAYUSH省の下でインド伝統医学国家委員会(NCISM)に登録して開業する。教育・試験・登録という三点セットで、伝統医療を国家が資格化する道を選んだことになる。
皮肉なことに、現代日本の漢方には独立した資格が無く、西洋医学の医師免許を持つ者が漢方薬を処方する仕組みのままである。「伝統医学をどう扱うか」という同じ問いに対して、近隣諸国と日本はまったく違う答えを出したことになる。
報広告と評判 — 腕は、どうやって測られたか
免許が無い以上、医者にとって最大の資産は評判だった。看板には流派と診療科が記され、剃髪と十徳という身なりも含めて、これが実質的な資格表示の代わりを務めた。相撲の番付を模した名医の番付も刷られたが、中身は遊興的なもので、実際の腕前を客観的に測った結果ではない(確度★★)。
結局のところ、江戸の医療の品質管理は、町の噂という遅くて不完全な装置に委ねられていた。噂が広まるには、誰かが実際に治療を受け、良くなるか悪くなるかを見届ける必要がある。免許制度の無い社会は、このリスクを常に患者の側へ押しつけていたことになる。
出典・確度 15件 最終確認 2026年8月27日 ひらく
- 江戸時代に医師の免許・資格制度が存在せず、明治7年(1874)の「医制」以降に近代的な医師資格制度が整備されたこと — 日本医学史の定説。医制の原本類は国立公文書館および国立国会図書館デジタルコレクションで公開資料が確認できる ★★★ [A: 定説・公的機関]
- 杉田玄白・前野良沢ら『解体新書』安永3年(1774)刊 — 原本は国立国会図書館デジタルコレクションで公開。刊行年は定説 ★★★ [S: 一次史料]
- 山脇東洋の観臓(宝暦4年・1754)と『蔵志』(宝暦9年・1759刊) — 医学史の定説。刊本はNDLデジタルコレクション等で確認できる ★★★ [S: 一次史料]
- 後世方・古方派・折衷派・考証派という近世漢方の流派区分、吉益東洞(1702〜1773) — 医学史の定説。ただし流派の区分は後代の整理であり、実際の医家の営みはより連続的である ★★★ [A: 定説]
- 幕府医学館(多紀家の躋寿館を寛政3年・1791に官立化) — 定説。ただし官立化の時期・段階の記述は史料により細部が異なる ★★ [B: 二次資料・細部に差]
- 小石川養生所の設立(享保7年・1722)と、小川笙船の目安箱への建議 — 定説。設立の経緯は幕府の記録および小石川御薬園(現・東京大学大学院理学系研究科附属植物園)の沿革として広く扱われる ★★★ [A: 定説]
- 小石川養生所の収容規模(当初四十人程度、のち百人規模) — 時期により定員の増減があり、記述は史料・概説書により幅がある ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 幕末期に養生所の運営が形骸化し、入所を忌避する風評があったとされること — 概説書で言及されるが、風評の程度を定量的に示す史料は乏しい ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 「藪医者」の語源 — 諸説あり定まらない ★ [C: 諸説あり]
- イギリスのフィジシャン/サージャン/アポセカリの三層構造と、1858年の Medical Act による医師登録制の開始 — 西洋医学史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 現在の医師免許制度(医師法に基づく医師国家試験・厚生労働大臣免許・無免許医業への罰則)と、届出医師数の統計 — 厚生労働省「医師・歯科医師・薬剤師統計」ほか。数値は調査年により変動する ★★★ [A: 公的統計・現行制度]
- 中国の中医執業医師資格制度(教育・国家統一試験・登録) — 国家中医薬管理局が所管する現行制度 ★★★ [A: 公的機関・現行制度]
- 韓国の韓医師制度(西洋医学の医師と別資格、韓医科大学6年+国家試験) — 保健福祉部が所管する現行制度 ★★★ [A: 公的機関・現行制度]
- インドのAYUSH省とインド伝統医学国家委員会(NCISM)によるアーユルヴェーダ医(BAMS)等の資格制度 — AYUSH省が所管する現行制度 ★★★ [A: 公的機関・現行制度]
- 現代日本の漢方薬が独立の「漢方医」資格を持たず、医師免許を持つ医師が処方する制度であること — 日本東洋医学会など専門団体の説明に基づく現行制度の理解 ★★★ [A: 現行制度]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月27日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。