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疫病と、病がもたらす貧困疱瘡と麻疹、まじない、そして病が家計を壊すこと

江戸の医者には免許が無く、腕も薬の効き目も確かめる術がなかった。この条件のもとで、江戸の庶民が最も恐れたのが疱瘡(天然痘)と麻疹(はしか)という子どもの命を奪う病であり、そして病そのものが引き起こす貧困だった。治療の当てにならない社会では、薬と護符が同じ枕元に並び、病むことは稼ぎが止まると同時に出費が増えるという二重の打撃を家計に与えた。この記事では、疫病への向き合い方と、病が暮らしを壊す仕組みを追う。

疱瘡の発疹が出た子どもを描いた江戸期の医学写本の彩色図
医学写本にある疱瘡の症状図(1720年頃)。疱瘡は子どもの命を最も奪った病であり、こうした図は診断のために描かれた。治す手立てがない病に対して、人は赤い絵を貼り、神に祈り、同時に養生の書を読んだ。所蔵: ウェルカム・コレクション。画像: Wikimedia Commons(CC BY 4.0)

しくみ⑥ 疱瘡と麻疹 — 子どもを殺す病と、赤い絵

江戸の病を語るとき、最も重い位置にあるのが疱瘡(天然痘)と麻疹(はしか)である。どちらも子どもの命を奪う病で、子育てとは切り離せない。

疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」という言い回しが伝わる。疱瘡は治っても痘痕(あばた)が残って容貌を決め、麻疹は生きるか死ぬかを決める、という意味である。俗諺なので成立時期も分布も確かめにくいが、二つの病が別種の恐れられ方をしていたことは伝わる(確度★★)。

疱瘡は主に幼児がかかり、一度かかれば二度はかからない。だから江戸の親にとって疱瘡は「いつか必ず通る関門」であり、それを無事に通れるかどうかが子の生死を分けた。麻疹のほうは流行が数年から数十年おきに訪れ、間隔が空いた分だけ免疫のない層が積み上がって、来たときに大流行になる。

文久2年(1862)の麻疹: この年、麻疹が全国に大流行した。江戸でも多数の死者が出て、同時にコレラも流行したため被害は重なった。死者数として数万人という数字が挙げられることがあるが、当時の記録は集計方法も範囲もまちまちで、正確な人数は分からない(確度★)。確かなのは、この流行に合わせて麻疹絵という錦絵が大量に出版されたことである。

麻疹絵には、単なる魔除けではなく実用的な養生の情報が刷り込まれていた。食べてよいもの・いけないものの一覧、風呂をいつから使ってよいか、床上げまでの日数といった注意書きである。錦絵は当時の速報メディアの一角であり、疫病の情報が絵として流通したことになる。効能の当否とは別に、紙が公衆衛生の伝達手段になった点は見逃せない。

疱瘡には赤いものが効くという信仰があった。赤い衣を着せ、赤い達磨や木菟(みみずく)の張り子を枕元に置き、疱瘡絵と呼ばれる赤一色の絵を貼る。描かれるのは疱瘡神を退けるとされた鎮西八郎為朝や鍾馗である。病が明ければ、供物を桟俵に載せて川に流す「疱瘡神送り」を行う土地もあった。

そして幕末、この構図に決定的な一手が加わる。牛痘種痘である。イギリスのジェンナーが1796年に確立した方法が、蘭方医の手で日本に持ち込まれ、嘉永2年(1849)以降、各地で接種が始まった。大坂の除痘館、江戸のお玉ヶ池種痘所はその拠点である。効くと分かった予防法が、免許制度も公衆衛生行政も無い社会に、医者どうしの私的な網の目を通じて広がったことになる。

しくみ⑦ まじないと医療は、同じ屋根の下にあった

病人の枕元には、薬袋と一緒に護符が置かれていた。医者を呼び、同時に祈祷を頼む。これを「一方は科学、一方は迷信」と切り分けて裁くと、当時の判断の合理性を取り逃がす。

病の原因が分からず、治療の効き目も確かめようがない世界では、手を尽くすこと自体に意味がある。何が効いたか事後に検証する手段が無い以上、効く可能性のあるものを全部試すのは、むしろ理にかなった行動である。薬も、鍼も、護符も、参籠も、期待値の分からない選択肢として横並びに置かれていた。

疫病除けの装置は多彩だった。門口に貼る蘇民将来の札、赤い紙に刷った鍾馗、疫病神を送り出す町内の行列。弘化3年(1846)には、肥後国の海に現れて豊凶と疫病を予言し「私の姿を写して人に見せよ」と告げたとされるアマビエの記事が瓦版に載った。姿を写すことが病除けになるという発想は、絵という媒体が防疫の役を担っていたことを示す。この瓦版は現存し、京都大学附属図書館が所蔵する資料として知られる。

もう一つ、当時の合理として押さえたいのが養生の思想である。貝原益軒が正徳3年(1713)に刊行した『養生訓』は、飲食を節し、色欲を慎み、怒りを抑え、適度に体を動かすことを説いた。病を治す方法より病まない生き方を重んじるこの発想は、治療手段の乏しさの裏返しであると同時に、実際に有効な部分を多く含んでいた。

しくみ⑧ 病は家計を壊す — 二重の打撃

庶民にとって病の恐ろしさは、症状そのものだけではなかった。病むと、出ていく銭が増えると同時に、入ってくる銭が止まる

江戸の家計は日払いの手間賃で回っている。職人が寝込めば、その日の稼ぎはゼロである。傷病手当も、健康保険も、有給休暇も存在しない。そこへ薬礼が乗り、按摩を呼べばまた銭が出る。この二重の打撃が、長屋の家計を最も確実に壊した。

ではどう凌いだか。まず質屋である。着物を入れて薬代を作り、治って稼げるようになったら請け出す。次に。頼母子講・無尽講の順番を早めてもらう、あるいは病を理由に起こす。そして店賃の待ってもらい長屋の大家は家主であると同時に町の末端行政を担う立場で、店子が病んだときの世話も職分のうちだった。

それでも立ち行かなければ、町内の相互扶助に頼る。町入用(町の共同経費)から見舞いが出ることもあり、飢饉や災害の際には町会所の備蓄が回された。制度としての社会保障は無いが、顔の見える範囲の助け合いが、その代わりを務めていた。逆に言えば、その範囲から外れた者——身元の知れない流入者、病んで働けなくなった独り者——は、どこにも受け皿が無かった。

江戸と今 — 感染症対策と医療費という二本柱

現代の日本には、江戸に無かった二本の柱がある。一つは感染症対策の制度である。感染症法が疾病の分類と行政の権限を定め、予防接種法に基づく定期接種が乳幼児期から計画的に行われる。麻疹・風疹の混合ワクチン(MRワクチン)は定期接種の対象で、天然痘そのものは1980年にWHOが世界根絶を宣言し、日本でも種痘は行われていない。かつて子どもの命を最も奪った病が、いまは存在しないという事実自体が、この制度の到達点を示している。

もう一つの柱が国民皆保険である。1961年に国民健康保険の全国普及が実現して以来、日本ではすべての国民が公的医療保険に加入する仕組みが整っている。窓口負担は原則一〜三割にとどまり、負担が一定額を超えれば高額療養費制度が超過分を払い戻す。江戸の庶民が薬礼の全額を自弁し、払えなければ質屋に走るしかなかった構図とは対照的である。

ただし、この二本柱にも限界はある。保険料や窓口負担そのものが払えない世帯、非正規雇用で傷病手当を受けにくい働き方など、「病むと稼ぎが止まる」という江戸以来の構造が、形を変えて残っている部分もある。制度は江戸より遥かに手厚いが、二重の打撃という問題そのものを完全には消し去っていない。

同じころ、世界では — 種痘はどう広まったか

天然痘への対抗は世界規模の出来事だった。イギリスのジェンナーが牛痘接種の効果を報告したのが1796年、日本での本格導入が1849年前後である。半世紀の遅れで、鎖国下の社会に新しい予防法が届いたことになる。しかもそれを運んだのは国家の衛生行政ではなく、蘭方医という民間の学問ネットワークだった。

本国イギリスでは、種痘の普及はむしろ国家の手で急速に進んだ。1840年には貧民への無料接種を定める法律が、1853年にはすべての乳児に種痘を義務づける種痘法(Vaccination Act)が制定され、以後、罰則を伴う強制接種の時代に入る。江戸の種痘が医者どうしの善意と評判のネットワークで広がったのに対し、イギリスでは国家が法律と罰則によって普及を強制した。同じ技術の受容が、まったく異なる制度の道をたどったことになる。

種痘はその後、イギリスの植民地や交易網を通じて世界各地に広がり、19世紀を通じて天然痘による死者は各地で減少していく。それでも根絶までにはさらに一世紀以上を要し、世界保健機関(WHO)が世界天然痘根絶を宣言したのは1980年のことである。ジェンナーの発見から実に184年が経っている。

アジアのいま — 制度はあっても、格差は残る

現代のアジアでは、多くの国が公的医療保険や国民皆保険に類する制度を整備しつつある。だが世界保健機関(WHO)と世界銀行が共同で公表する「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」の監視報告は、医療費の自己負担が家計を破綻させる「破局的医療支出」が依然として多くの国で報告されていることを示している。制度が紙の上に存在することと、実際に貧困を防いでいることの間には、なお開きがある。

ワクチン接種の到達度にも地域差がある。麻疹・はしかワクチンの接種率は、都市部と農村部、富裕層と貧困層のあいだで差が大きく、接種を逃した層に流行が集中するという構図は、江戸の「間隔が空くほど流行が大きくなる」麻疹の性質と本質的に変わらない。免疫を持たない層が積み上がったところに病が来る、という力学そのものは、江戸も現代も共通している。

そしてなお、病むことが家計を壊すという江戸以来の二重の打撃は、社会保障の薄い地域では現在進行形の問題である。日払い・出来高払いで働く層が病めば収入が止まり、同時に医療費が発生する。この構造は、江戸の長屋の職人が抱えていた問題と地続きである。

広告と評判 — 死者の記録が、残らない層がいる

文久2年(1862)の麻疹・コレラ流行による江戸の死者数は、「数万人」といった数字が挙げられることがあるが、正確な人数は分からない。この「分からなさ」そのものに、当時の記録の性質が表れている。

寺の過去帳や町の記録に載るのは、檀家として登録され、弔いを出せる家の者である。身元の知れない流入者、行き倒れた者、家を持たない層の死は、そもそも数える仕組みの外にあった。疫病の死者数が過小に見積もられるとすれば、その理由の多くは「数え漏れ」であって「軽症だった」ことではない。統計に載らない死は、無かったことにされた死ではなく、記録する制度が届かなかった死である。

この構図は現代にも残る。感染症の流行時には、公式に報告された死者数と、平時の死亡動態から推計される「超過死亡」との間にしばしば差が生じる。検査や医療にアクセスできなかった人、路上生活者など、公式統計に届きにくい層はいまも存在する。世界保健機関(WHO)は近年、報告数と超過死亡の推計値を並べて公表するようになった。数えられる死と数えられない死の落差は、江戸から続く問題である。だからこそ本記事は、死者数や割合に必ず確度の印を添えている。

出典・確度 15件 最終確認 2026年8月27日 ひらく
  1. 「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」 — 俗諺として広く紹介されるが、成立時期・分布は特定しがたい ★★ [B: 俗諺]
  2. 文久2年(1862)の麻疹大流行と麻疹絵の大量出版 — 定説。麻疹絵・疱瘡絵は国立歴史民俗博物館東京都立図書館などが資料を所蔵・公開している ★★★ [A: 定説・公的機関所蔵]
  3. 文久2年の麻疹およびコレラによる江戸の死者数 — 「数万人」などの数字が挙げられるが、当時の記録は集計範囲も方法も一定でなく、正確な人数は確定できない [C: 数値は不確定]
  4. 赤色による疱瘡除け(疱瘡絵、赤い張り子、鎮西八郎為朝・鍾馗の図像)、疱瘡神送り — 民俗として広く報告される。地域差が大きい ★★ [B: 民俗・地域差大]
  5. 弘化3年(1846)のアマビエの瓦版 — 京都大学附属図書館所蔵の瓦版として知られ、2020年以降に広く紹介された。ただしアマビエ以外の予言獣(アマビコ等)との関係については研究上の議論がある ★★ [B: 資料は実在/解釈に議論]
  6. 貝原益軒『養生訓』正徳3年(1713)刊 — 刊本は国立国会図書館デジタルコレクションで公開。刊行年は定説 ★★★ [S: 一次史料]
  7. 緒方洪庵らの除痘館(大坂・嘉永2年・1849)、お玉ヶ池種痘所(江戸・安政5年・1858)とその後の西洋医学所への発展 — 医学史の定説 ★★★ [A: 定説]
  8. ジェンナーによる牛痘種痘の報告(1796年)と、日本への導入が19世紀半ばであったこと — 定説 ★★★ [A: 定説]
  9. イギリスにおける1840年の貧民向け無料種痘法制と、1853年の種痘法(Vaccination Act)による乳児への強制接種 — イギリス公衆衛生史の定説 ★★★ [A: 定説]
  10. 世界保健機関(WHO)による1980年の世界天然痘根絶宣言 — WHO公式サイトで公表されている定説 ★★★ [A: 公的機関]
  11. 日本の現行の感染症法・予防接種法に基づく定期接種制度(麻疹・風疹混合ワクチン等) — 厚生労働省が所管する現行制度 ★★★ [A: 現行制度]
  12. 日本の国民皆保険(1961年の国民健康保険全国普及)と高額療養費制度 — 厚生労働省が所管する定説・現行制度 ★★★ [A: 定説・現行制度]
  13. 世界保健機関(WHO)・世界銀行によるユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)監視報告と「破局的医療支出」の指標 — WHO公式サイトで公表される国際的な監視枠組み ★★★ [A: 公的機関]
  14. 感染症流行時に公式死者数と超過死亡の推計値との間に差が生じうること — WHOが近年の感染症流行に際して公表してきた分析枠組みに基づく一般的知見 ★★★ [A: 公的機関・一般知見]
  15. 薬礼に定価がなく、身代に応じた額を盆暮れに納める慣行、および病による収入途絶と長屋・質屋・講による相互扶助 — 近世の生活史・経済史として概説書で述べられるが、運用は地域・時期により一様でない ★★ [B: 二次資料・諸説あり]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月27日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20260902 1152