世 — せかい

漂流民 — 望まずに海の外を見た人たち閉じた国のいちばん確かな目撃者は、嵐に流された船乗りだった

江戸時代の日本人は、海の外へ出ることを禁じられていた。寛永12年(1635)には日本人の海外渡航と、外国にいる日本人の帰国が禁じられる(確度★★★)。出島のオランダ人や朝鮮通信使は「向こうから来る」外国だった。では、海の外を自分の目で見た日本人はいなかったのか。いた。その多くは、嵐で流された船乗りである。米や酒を積んで江戸へ向かった廻船が流され、乗組員がロシアやアメリカの土を踏んだ。生きて帰れた者は役人の取り調べを受け、その話は幕府の管理のもとに置かれた。だが書き留められた記録は、外の世界を知る数少ない窓になった。この記事では、望まずに海を渡った人たちの道のりを追う。

ロシアの洋装の二人の日本人。左の男は緑の上着に青い胴着、胸に金色の勲章を下げ、杖を持ち、黒い帽子を手にしている。右の男は橙色の長い上着で、こちらに背を向けるように立ち、編んだ髪を背中に垂らしている。二人の頭の横に名が墨書され、右下に朱の蔵書印がある
大黒屋光太夫(左)と磯吉の肖像(寛政4年〈1792〉)。作者不詳。ロシアから帰った二人を、向こうで身につけた洋装のまま描いたものとみられる。左の光太夫は緑の上着に青い胴着を着て、胸に金色の勲章を下げ、杖と黒い帽子を持つ。右の磯吉は橙色の長い上着で、ほとんど後ろ姿に近く、編んだ髪を背中に垂らしている。頭の横にはそれぞれの名が墨で書き入れられ、光太夫の名は「幸太夫」と読める。右下に朱の蔵書印がある。上着も履物も髪の形も、二人の装いそのものが十年の歳月を物語っている。画像: Wikimedia Commons(World Imaging、CC BY-SA 3.0)

組しくみ① 弁才船と黒潮 — なぜ流されたのか

江戸時代の国内の物流を支えたのは、弁才船と呼ばれる木造の廻船だった。大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船・樽廻船も、日本海をめぐる北前船も、多くはこの型である。大きな帆柱一本に大きな四角い帆を一枚張り、少ない人数で多くの荷を運べた(確度★★★)。

この船は、冬の嵐に弱かったとされる。船体の上が全面の甲板で覆われておらず、大波をかぶると水が入りやすい。船を守るため、嵐の中では帆柱を切り倒し、積み荷を海に捨てるのが常だった(確度★★)。帆柱を失い、舵も波に壊されると、船はもう進む向きを選べない。日本の南岸を流れる黒潮に乗れば、船は東へ、北太平洋へと運ばれていく(確度★★)。

なぜそんな船しかなかったのか。よく言われるのは「幕府が大船の建造を禁じ、帆柱も一本に限ったから、外洋に出られない船になった」という説明である。だが寛永12年(1635)の武家諸法度が禁じた五百石積み以上の大船は、主に大名の軍船を念頭に置いたもので、商船は寛永15年(1638)にはっきり除外された(確度★★)。千石積みの廻船が当たり前に走っていたことからも、禁令だけでは説明がつかない。帆柱一本の作りは、沿岸を安く速く走るための工夫が積み重なった結果とみる見方も強く、どちらを重く見るかは研究者の間でも分かれる(確度★)。

漂流は、日本だけの出来事でもなかった。東アジアの海では、流れ着いた他国の船乗りを送り返す慣行があり、日本の漂流民は中国の商船に乗せられて長崎へ、朝鮮に流れ着いた者は対馬を経て戻された(確度★★)。国を閉じていても、海で遭難した人を返し合う道は開いていたのである。

組しくみ② 大黒屋光太夫 — 十年かけて帰った船頭

伊勢国白子(いまの三重県鈴鹿市)の廻船神昌丸の船頭、大黒屋光太夫が江戸へ向けて出帆したのは、天明2年(1782)12月のことである(西暦では翌1783年の初め)。船は駿河沖で嵐に遭って流され、光太夫を含む17人は七か月あまり海をさまよった末、アリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着いた(確度★★★)。

島で四年を過ごし、仲間を次々に失いながら、一行は流木と難破船の材で船を造ってカムチャツカへ渡る。さらにオホーツクを経てシベリアのイルクーツクへ。ここで博物学者キリル・ラクスマンの助けを得た光太夫は、帰国を願い出るために首都ペテルブルクへ向かい、1791年、女帝エカチェリーナ2世に謁見した(確度★★★)。

帰国の許しは出た。だがそれは、ロシアにとって日本との通商を開く足がかりでもあった。寛政4年(1792)、光太夫・磯吉・小市の三人は、キリルの息子アダム・ラクスマンの船で根室に着く(確度★★★)。小市は根室で冬を越すうちに亡くなり、江戸の土を踏めたのは17人のうち光太夫と磯吉の二人だけだった。ロシアで洗礼を受けた二人は、そのままイルクーツクに残った(確度★★★)。遭難からおよそ十年。ラクスマン来航が北の守りに与えた波紋は、蝦夷地の記事で見たとおりである。

翌寛政5年(1793)、二人は江戸城で将軍徳川家斉の前に呼ばれ、ロシアのことを問われた。その場にいた蘭方医の桂川甫周は、光太夫からの聞き取りをもとに『北槎聞略』(寛政6年〈1794〉)をまとめる(確度★★★)。ロシアの地理・政治・暮らしから言葉までを収めた、当時の日本で最も詳しいロシアの報告だった。蘭学がオランダ語の本を通して西洋を読んだのに対し、こちらは生きた人の十年の記憶を通して読んだ。

組しくみ③ 帰った者の取り調べ — 踏絵と口書

帰国できた漂流民を待っていたのは、まず取り調べだった。多くは長崎に送られ、奉行所でどこへ流れ、誰と会い、何を見たかを細かく問われ、キリスト教に染まっていないかを確かめるために踏絵を踏まされた(確度★★)。答えは口書(供述書)にまとめられる。そのあと故郷の藩に引き渡され、ここでも調べを受けてから、ようやく家に帰ることを許された(確度★★)。

帰ったあとの暮らしにも縛りがあった。他国へ出ることや船に乗ることを禁じられたり、異国の話をみだりにしないよう申し渡されたりした例が知られる(確度★★)。見てきたことは、本人のものではなく、幕府が預かる情報になったのである。

光太夫の場合はどうだったか。故郷には帰されず、江戸の番町にあった幕府の薬草園に住まいを与えられ、手当を受けて暮らした。古くは「生涯軟禁された」と語られることが多かった。だが近年の研究では、妻を迎え、蘭学者たちと行き来し、享和2年(1802)には一度伊勢へ帰郷することも許されたことから、行動に制限はあっても、閉じ込められた暮らしではなかったとみる見方が強まっている(確度★★)。光太夫は文政11年(1828)に江戸で亡くなった(確度★★★)。

数字で見る神昌丸: 乗っていたのは17人。帰国できたのは光太夫・磯吉・小市の3人で、小市は根室で亡くなった。ロシアに残ったのが2人、残る12人は島や旅の途中で亡くなっている(確度★★★)。十年の旅で、生きて故郷の国に戻れたのは十人に一人あまりだった。

組しくみ④ 帰れなかった音吉たち — モリソン号事件

帰りたくても帰れなかった者もいる。天保3年(1832)、尾張国知多郡小野浦(いまの愛知県美浜町)の宝順丸が、鳥羽から江戸へ向かう途中で流された。14人のうち生き残ったのは岩吉・久吉・音吉の三人だけで、一年以上の漂流の末、北米の太平洋岸、いまのアメリカ・ワシントン州の岬の近くに流れ着いた(確度★★)。三人は先住民のもとからイギリスの交易会社に引き取られ、ロンドンを経てマカオへ送られる(確度★★)。

天保8年(1837)、アメリカの商船モリソン号が、この三人を含む七人の漂流民を乗せて日本へ向かった。送り返すことをきっかけに、通商や布教の道を開く狙いもあったとされる(確度★★)。ところが浦賀に近づいた船は砲撃を受け、次に向かった薩摩の山川でも撃たれ、引き返した。文政8年(1825)の異国船打払令のもとでは、自国民を乗せた船でさえ追い払う対象だった(確度★★★)。

この事件は翌年、オランダ経由で幕府に伝わる。渡辺崋山の『慎機論』や高野長英の『戊戌夢物語』は打ち払いの危うさを説いたが、二人は天保10年(1839)の蛮社の獄で罰せられた(確度★★★)。打払令はその後、アヘン戦争の報せを受けて天保13年(1842)に改められる。その流れは黒船の記事に詳しい。

音吉はついに故郷に帰らなかった。マカオでは宣教師ギュツラフの聖書の和訳を手伝い、のちに上海でイギリスの商社に勤め、嘉永7年(1854)にはイギリス艦隊の通訳として長崎に来たと伝えられる(確度★★)。シンガポールで亡くなったのは慶応3年(1867)とされる(確度★★)。日本に入れなかった日本人が、日本と外国の間に立つ通訳になったのである。

組しくみ⑤ ジョン万次郎 — 捕鯨船が運んだ学問

天保12年(1841)、土佐国中ノ浜の14歳の少年万次郎は、仲間四人と漁に出て嵐に遭い、伊豆諸島の無人島・鳥島に流れ着いた。五人はおよそ140日を島で生き延び、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救われる(確度★★★)。北太平洋の鯨を追う船が日本の近海まで来ていたことは、黒船の記事で見た。漂流民を救ったのも、その捕鯨船だった。

船長ホイットフィールドに見込まれた万次郎は、仲間をハワイに残してアメリカ東部のフェアヘイブンへ渡り、学校で英語や数学、測量や航海術を学んだ(確度★★★)。捕鯨船員として働き、金鉱で帰国の資金を稼いだのち、嘉永4年(1851)、仲間二人とともに琉球に上陸した(確度★★★)。

ここから取り調べが続く。薩摩では藩主島津斉彬自らが話を聞き、長崎奉行所では踏絵を踏み、土佐藩でも調べを受けて、故郷に帰れたのは上陸から一年半あまり後だった(確度★★)。土佐では絵師の河田小龍が万次郎から話を聞き取り、絵を添えて『漂巽紀略』にまとめた(確度★★★)。

嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、事情は一変する。アメリカを知る者として幕府に呼ばれた万次郎は、漁師の子から幕臣に取り立てられ、中浜の姓を名乗った(確度★★★)。万延元年(1860)には咸臨丸に通訳として乗り組み、再び太平洋を渡っている(確度★★★)。光太夫の見聞が幕府の奥にしまわれたのに対し、万次郎の見聞は、国が開く時代に使われた。同じ漂流民でも、帰った時代が運命を分けた。

今江戸と今 — 救うことが義務になった海

江戸時代、遭難者を助けるかどうかは、出会った船の善意と、相手の国の都合しだいだった。いまの海では、助けることが国際的な義務になっている。海上人命安全条約(SOLAS条約)や国連海洋法条約は、遭難者を見つけた船の長に救助を求め、昭和54年(1979)に採択された海上捜索救助条約(SAR条約)は、各国が担当の海域を決めて捜索と救助の体制を整えることを定めた。日本は昭和60年(1985)にこれに加わっている(確度★★)。日本の海での事故の通報は、海上保安庁の118番で受け付けている(確度★★★)。

漂流民の記憶も、各地で受け継がれている。光太夫の故郷の三重県鈴鹿市には大黒屋光太夫記念館があり、万次郎の故郷の高知県土佐清水市にはジョン万次郎資料館がある(確度★★)。土佐清水市は、万次郎が少年時代を過ごしたフェアヘイブンと姉妹都市を結んでいる(確度★★)。音吉の故郷の愛知県美浜町には、平成17年(2005)にシンガポールから音吉の遺灰の一部が迎えられたとされる(確度★★)。

黒潮は、いまも同じ向きに流れている。平成23年(2011)の東日本大震災の津波で流された漁船や浮き桟橋が、一、二年をかけて北米の太平洋岸に流れ着いた(確度★★★)。宝順丸が流れ着いたのと同じ海岸に、令和の時代にも日本の船が届いている。

史同じころ、世界では — 北太平洋の探検と、ロシアの日本語学校

光太夫が流された18世紀後半、北太平洋はヨーロッパの国々が競って探る海だった。ロシアは1741年のベーリングの航海でアラスカに達し、毛皮を求めてアリューシャン列島へ進んだ(確度★★★)。光太夫たちがアムチトカ島でロシア人に出会えたのは、この毛皮の商いのためである。イギリスのクックは1778年、第三回航海でハワイに着き、アラスカの沿岸まで北上した(確度★★★)。産業革命が始まったイギリスの船が、地図の空白を埋めていった時代である。

ロシアは早くから日本の漂流民に目をつけていた。17世紀の末にカムチャツカに流れ着いた大坂の商人伝兵衛は、モスクワでピョートル1世に会い、のちに日本語を教える役についた(確度★★)。ロシアは日本語の学校を開き、漂流民を教師にした。この学校はのちにイルクーツクへ移され、光太夫もそこで日本語教師になるよう勧められたと伝えられる(確度★★)。漂流民は、ロシアにとって日本を知るための大事な「教科書」だった。

逆向きの例もある。嘉永元年(1848)、アメリカ人のラナルド・マクドナルドは、わざと漂流者を装って利尻島に上陸した。長崎に送られた彼は、取り調べを待つ間にオランダ通詞の森山栄之助らに英語を教えた(確度★★★)。森山はのちにペリーとの交渉で通訳を務めている(確度★★)。漂流は、言葉が海を渡るほとんど唯一の道でもあった。

亜アジアのいま — 海に出る人の、守られにくさ

現代のアジアの海でも、漂流は終わっていない。日本海側の沿岸には、朝鮮半島から来たとみられる木造船の漂着が続き、平成29年(2017)ごろには特に多く報じられた(確度★★)。乗っていた人が生きて見つかることもあれば、船だけが流れ着くこともある。平成27年(2015)には、アンダマン海でロヒンギャの人々などを乗せた船が各国に受け入れを拒まれ、海上をさまよったことが国際的な問題になった(確度★★)。上陸を拒まれた船という姿は、モリソン号を思い起こさせる。

もう一つの問題は、遠い海で働く漁船員の暮らしである。東南アジア出身の船員が、他国の遠洋漁船で長く陸に上がれず、過酷な労働を強いられている例が、国際機関や支援団体から繰り返し報告されている(確度★★)。漁業で働く人を守る国際労働機関(ILO)の条約は平成19年(2007)に採択され、アジアではタイが早くに批准した(確度★★)。海に出た人が、陸の法の届かないところに置かれるという点で、江戸の漂流民と現代の漁船員はどこかでつながっている。

報広告と評判 — 写本で回った漂流記、人だかりのできた帰国者

漂流民の話は、幕府がしまい込もうとしても漏れ出した。取り調べの口書や聞き書きは写され、漂流記として武士や学者、町の読み手の間を回った(確度★★)。『北槎聞略』は公に刊行されなかったが、将軍の前で光太夫が答えた記録などは写本で広く読まれたとされる(確度★★)。印刷して売れない話ほど、手で写して読む写本の世界で生きた。貸本屋が扱った写本の中にも、異国の話はあったと考えられる(確度★)。

尾張の督乗丸の船頭重吉は、文化10年(1813)から一年以上、記録に残るなかでも最も長い漂流の一つを生き延びたとされ、その話は『船長日記』にまとめられた(確度★★)。石巻の若宮丸の乗組員は、ロシアから大西洋・南米を回る船で文化元年(1804)に長崎へ帰り、世界を一周した最初の日本人と呼ばれる。その見聞は蘭学者大槻玄沢らの『環海異聞』に残った(確度★★)。

帰ってきた本人も、評判の的だった。洋装で江戸に戻った光太夫のもとには、異国の話を聞こうとする人が集まったと伝えられる(確度★★)。蘭学者たちが西洋の暦の正月を祝った寛政6年閏11月(西暦1795年の元日にあたる)の集まりを描いた絵には、光太夫の姿があるとされる(確度★★)。帰国者は、ときに見世物のように眺められる存在でもあった。

近代になると、漂流民は物語の主人公になる。井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』は昭和13年(1938)に直木賞を受け、井上靖の『おろしや国酔夢譚』は光太夫の十年を描いて映画にもなった(確度★★★)。江戸では隠された見聞が、いまは冒険の物語として読まれている。だがその出発点には、帰りたいと願いながら海で亡くなった、名も残らない多くの船乗りがいたことを忘れてはならない。

出典・確度 15件 最終確認 2026年10月23日 ひらく
  1. 寛永12年(1635)の日本人の海外渡航・帰国の禁止、文政8年(1825)の異国船打払令、天保13年(1842)の改定、天保10年(1839)の蛮社の獄 — 近世史の定説。概説書・高校日本史の教科書で定着した記述 ★★★ [A: 定説]
  2. 弁才船の構造(一本の帆柱・大きな横帆・全面の甲板が無い)と、嵐の際の帆柱の切断・積み荷の投棄、漂流の多さ — 石井謙治『和船』(法政大学出版局「ものと人間の文化史」)、船の科学館の解説 ★★ [A: 学術書・博物館資料]
  3. 寛永12年の武家諸法度の大船建造禁止と、寛永15年(1638)の商船の除外、「一本帆柱の強制」説への異論 — 近世海運史の研究による。説明の重みづけは研究者により異なる ★ [B: 二次資料・諸説あり]
  4. 東アジアの漂流民送還の慣行(中国船による長崎への送還、対馬を経た朝鮮からの送還) — 春名徹『世界を見てしまった男たち — 江戸の異郷体験』(ちくま文庫)、近世の対外関係史の概説 ★★ [B: 二次資料]
  5. 大黒屋光太夫と神昌丸の遭難(天明2年12月)、アムチトカ島・イルクーツク・ペテルブルク、エカチェリーナ2世への謁見(1791年)、ラクスマンの根室来航(寛政4年・1792)、17人の内訳 — 桂川甫周『北槎聞略』(寛政6年・1794成立、岩波文庫で読める) ★★★ [S: 一次史料]
  6. 光太夫の江戸での暮らし(番町の薬草園・帰郷の許し)と、「軟禁」像の見直し、没年(文政11年・1828) — 山下恒夫『大黒屋光太夫 — 帝政ロシア漂流の物語』(岩波新書)、鈴鹿市(大黒屋光太夫記念館)の解説 ★★ [A: 一般向け概説・公的資料]
  7. 帰国者の取り調べ(長崎奉行所・踏絵・口書・藩への引き渡し)と帰国後の制限 — 春名徹、前掲書。漂流記の口書類による ★★ [B: 二次資料]
  8. 宝順丸と音吉ら三人、モリソン号事件(天保8年・1837)、音吉のその後 — 春名徹『にっぽん音吉漂流記』(中公文庫)、美浜町の解説。音吉の後半生の細部は★★ ★★ [B: 二次資料・公的資料]
  9. 万次郎の漂流(天保12年・1841)と鳥島、ジョン・ハウランド号、フェアヘイブンでの学び、琉球上陸(嘉永4年・1851)、取り調べ、幕臣への登用、咸臨丸 — 河田小龍『漂巽紀略』(嘉永5年・1852)、中浜博『中浜万次郎 — 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』(冨山房インターナショナル) ★★★ [S: 一次史料・評伝]
  10. SOLAS条約・国連海洋法条約の救助義務、SAR条約(1979年採択、日本は1985年加入)、118番 — 海上保安庁・外務省の公表資料 ★★ [A: 公的資料]
  11. 大黒屋光太夫記念館(鈴鹿市)、ジョン万次郎資料館(土佐清水市)とフェアヘイブンとの姉妹都市、音吉の遺灰の帰郷(2005年) — 各自治体の公表資料による。開館年などの細部は確かめていない ★★ [A: 公的資料]
  12. 東日本大震災の漂流物の北米到達 — 環境省・米国海洋大気庁の公表資料と報道による ★★★ [A: 公的資料]
  13. ベーリング(1741年)・クック(1778年)の航海、伝兵衛とロシアの日本語学校、ラナルド・マクドナルド(1848年)と森山栄之助 — 北太平洋探検史・日露関係史の概説 ★★ [B: 二次資料]
  14. 日本海沿岸の木造船の漂着、アンダマン海の漂流船(2015年)、遠洋漁船の外国人船員の労働問題、ILOの漁業労働条約(2007年採択) — 国際労働機関・海上保安庁の公表資料と報道による。現状は変化が速い ★★ [B: 現代資料]
  15. 漂流記の写本での流布、『船長日記』『環海異聞』、蘭学者の新元会の絵、帰国者への注目、井伏鱒二・井上靖の作品 — 漂流記研究の概説と文学史の定説。写本の流布の広さ・貸本屋との関わり・人だかりの様子は伝聞を含む。「見世物のように」は本サイトの言い換え ★ [C: 伝承を含む・F: 再構成]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年10月23日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20261023 0727