世 — せかい

蝦夷地とアイヌ — 交易の相手が、働き手に変えられるまで米のとれない藩が配ったのは、土地ではなく「交易する権利」だった

出島の記事で見たとおり、江戸幕府は長崎・対馬・薩摩・松前という「四つの口」で外の世界とつながっていた。その北の口、松前の向こうに広がっていたのが、和人が「蝦夷地(えぞち)」と呼んだ土地——いまの北海道・樺太(サハリン)・千島にかけて、アイヌが暮らしていた土地である。この記事でいちばん言いたいことは一つだ。米のとれない松前藩は、家臣に土地の代わりに「アイヌと交易する権利」を与え、やがてそれを商人に請け負わせた。交易の相手だったアイヌは、請負商人の漁場で働かされる労働力へと変えられていった。以下では、その仕組みと、アイヌの側が何を失ったかを順に追う。数の多くは史料によって幅があるので、確かめられないものは書かない。

蠣崎波響『夷酋列像』より「ションコ」。龍の文様の錦の衣をまとい刀を佩いた、ひげの長い老人の立ち姿。右上に別の角度から描いた顔の下絵がある
蠣崎波響『夷酋列像』より「ションコ」(寛政2年〈1790〉ごろ)。函館市中央図書館蔵。龍の文様の錦(蝦夷錦)をまとい、刀を佩いた首長の姿。右上には顔の下絵が添えられている。これは写生ではない。クナシリ・メナシの戦いの鎮圧に協力した首長たちを、松前藩の家老でもあった波響が、藩の立場から異国風に誇張して描いた像とされる。アイヌの姿を知る資料としてではなく、和人がアイヌをどう見せたかったかを示す資料として見る必要がある。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

組しくみ① 米のとれない藩 — 土地の代わりに配られた「商場」

松前藩(もとは蠣崎氏)は、慶長9年(1604)に徳川家康から黒印状を受け、蝦夷地でアイヌと交易する権利を独占することを認められた(確度★★★)。この黒印状は、松前氏の許しなく和人がアイヌと取引することを禁じる一方で、アイヌがどこへ行くかはアイヌ次第である、とも定めていたとされる(確度★★)。

松前藩には大きな弱みがあった。寒冷な土地で稲作がほとんどできず、石高で表せる領地を持たない、いわば「無高」の大名だったのである(確度★★)。ほかの藩なら家臣に米のとれる土地を知行として与える。松前藩にはそれができない。そこで藩は、蝦夷地の海岸を区切った商場を家臣に与えた。家臣は年に一、二度、自分の商場へ船を出し、米・酒・煙草・鉄の鍋や小刀・漆器・古着などを持ち込んで、アイヌの獲った鮭や鰊、熊の皮、鷲の羽、昆布などと交換する。それを本州の商人に売ったものが家臣の収入になった。これを商場知行制と呼ぶ(確度★★★)。藩はあわせて、渡島半島の南端を和人の住む「和人地」とし、その外の蝦夷地へ和人が勝手に入ることを制限した(確度★★)。

アイヌの側から見ると、この仕組みは大きな変化だった。それまでのアイヌは、自分たちで舟を出して松前や本州北部まで出かけ、相手を選んで取引していたとされる(確度★★)。商場の制度は、取引を「決まった場所で、決まった相手(その商場の持ち主)とだけ」行うものに変えた。相手を選べないということは、値段を決める力を手放すということである。

土地の代わりに配られたもの: ふつうの藩の家臣がもらうのは「米のとれる土地」だった。松前藩の家臣がもらったのは「アイヌと取引できる海岸」である。家臣の暮らしは、アイヌとの取引でどれだけ得をするかにかかっていた。この仕組みには最初から、交換の条件を和人側へ傾ける力が組み込まれていた。

組しくみ② 俵が小さくなる — シャクシャインの戦い(1669)

交換の条件は、年を追って悪くなった。よく引かれるのが米と干鮭の比率で、かつては米二斗入りの俵一つと干鮭百本を替えていたのが、俵の中身は七、八升に減らされ、求められる干鮭の数は据え置かれたと伝えられる(確度★★。数字は史料により幅がある)。加えて、鷹を捕る和人(鷹待ち)や砂金を掘る和人が蝦夷地へ入り込み、川や山を荒らした。

寛文9年(1669)、日高地方シブチャリ(いまの静内付近)の首長シャクシャインの呼びかけで、各地のアイヌが一斉に立ち上がった。直接のきっかけは、アイヌ同士の勢力争い(ハエの首長オニビシとの抗争)の中で、松前藩に助けを求めに行った使者が帰り道で死に、それが藩による毒殺だと噂されたことにあるとされる(確度★★)。蜂起は蝦夷地の東西に広がり、商船の乗組員や鷹待ち・金掘りの和人が多く殺された。幕府は松前藩の一門である松前泰広を送り、東北の藩にも備えを命じた。鉄砲を持つ藩側に押されるなか、和睦の席に招かれたシャクシャインは、その場で殺された(確度★★★)。

戦いのあと、藩はアイヌの首長たちに、藩への服従を誓う起請文を出させた(確度★★)。交易の主導権は、いよいよ和人の側に移る。この出来事を「反乱」と呼ぶか「戦い」と呼ぶかには、どちらの側に立つかが表れる。本記事は、交換の条件を一方的に切り下げられた側が武器を取った出来事として「戦い」と書く。

組しくみ③ 商人に任せる — 場所請負制と、働き手に変えられた人々

18世紀に入るころから、商場を持つ家臣が自分で船を出すのをやめ、交易を本州の商人に任せて、決まった額の運上金を受け取る形が広がった。これが場所請負制である(確度★★★。広がった時期は地域により差がある)。請け負ったのは、近江出身の商人や、材木の伐り出しから入った飛騨屋のような商人だった。

請負人にとって、儲けの源はしだいに「交易」から「漁業」へ移っていった。とくに鰊を大量に獲り、大釜で煮て油を搾り、その搾りかすを肥料の〆粕しめかすにする仕事は、多くの人手を必要とした。その人手として使われたのがアイヌである。請負人は場所ごとに運上屋(のちの会所)を置き、和人の支配人や番人が、アイヌを漁場で働かせた。働いた見返りは米・酒・煙草などの品物で、その量はわずかだったとされる(確度★★)。交易の相手だった人々が、ここで雇われる側、使われる側に変わった。

アイヌが失ったものは、取引の条件だけではない。働き手として遠くの漁場へ連れて行かれ、コタン(村)には老人と子どもが残される。自分たちの食べる鮭を獲るはずの季節に、請負人の鰊を獲らされる。冬の蓄えが足りなくなり、疱瘡などの疫病も重なって、幕末にかけて各地でアイヌの人口が大きく減ったことが記録されている(確度★★。数の推計は史料により幅があるため、本文では示さない)。番人によるアイヌの女性への暴力や、家族の引き離しも、のちに松浦武四郎らが書き留めている(確度★★)。

寛政元年(1789)、国後島と対岸のメナシ地方(いまの根室・標津のあたり)で、アイヌが飛騨屋の番人らを襲った。クナシリ・メナシの戦いである。殺された和人は七十人余りとされる(確度★★)。原因として、飛騨屋の場所での過酷な使役と、毒を盛られたという噂が伝えられる。松前藩は兵を出し、国後のツキノエ、厚岸のイコトイ、ノッカマップのションコら有力な首長が説得にあたった(確度★★)。投降した者のうち、蜂起の中心とされた三十人余りが処刑された(確度★★)。冒頭の絵に描かれたのは、このとき藩の側に立った首長たちである。

組しくみ④ 北から来た錦、南へ行った鰊にしん

蝦夷地は、北と南の二つの流れが交わる場所でもあった。北の流れは山丹交易である。アムール川(黒竜江)の下流域やサハリンに暮らす人々は、清朝に毛皮を納め、見返りに絹織物などを受け取っていた(確度★★★)。その絹が、下流域の人々からサハリンのアイヌの手を経て、松前まで届く。龍の文様を織り出した清朝の官服などの錦は、和人のあいだで蝦夷錦と呼ばれ珍重された。冒頭の絵の首長がまとっているのも、この種の錦として描かれたものである。

南の流れは北前船である。北前船は鰊・〆粕・昆布・鮭を積んで日本海を下り、下関を回って大坂へ運んだ。鰊の〆粕は、畿内や瀬戸内の木綿・菜種の畑を肥やす金肥(お金を出して買う肥料)になり(百姓たちの江戸時代)、昆布は上方の出汁の底を支えた。〆粕の生産が大きく伸びるのは、18世紀後半から19世紀にかけてとされる(確度★★)。

一本の鎖: 上方の木綿の着物と、大坂の昆布出汁。どちらも、材料の一部は蝦夷地の漁場から来ていた。そしてその漁場で網を引き、鰊を煮たのは、多くの場合、自分の暮らしの場から引き離されたアイヌだった。江戸の豊かさを語るとき、この鎖の北の端を落とさないこと。

組しくみ⑤ 幕府が乗り出す — ロシアの南下と直轄

18世紀後半、ロシアの船が千島列島を南へ進み、寛政4年(1792)にはラクスマンが根室に来航した(確度★★★)。蝦夷地を松前藩一藩に任せてはおけないと考えた幕府は、寛政11年(1799)に東蝦夷地を仮に直轄とし、享和2年(1802)に永久の直轄に改めた。文化4年(1807)には西蝦夷地を含めて全域を直轄とし、松前藩は陸奥の梁川へ移される。文政4年(1821)にいったん松前藩へ返されたが、安政2年(1855)、箱館の開港(黒船来航後の条約による)にともない、再びほぼ全域が直轄となった(年次は確度★★★。直轄した区域の細部は時期により異なる)。

直轄の時期、幕府は一部で場所請負をやめて役人が直接交易する「直捌(じかさばき)」を試み、アイヌへの扱いの改善も唱えた。同時に、髪型や衣服を和風に改めさせる「改俗」も進めた(確度★★)。保護と同化が、同じ手で行われていたのである。そして場所請負制そのものは、形を変えながら幕末まで続いた。

今江戸と今 — 「先住民族」と法律に書かれるまで

明治2年(1869)、蝦夷地は「北海道」と改められ、開拓が本格化する。アイヌは土地や漁・猟の自由を失い、明治32年(1899)の北海道旧土人保護法は、農業を勧めるという名目で同化を進めた。この法律が廃止されたのは平成9年(1997)、アイヌ文化振興法の成立によってである。平成20年(2008)には国会がアイヌを先住民族とすることを求める決議を採択し、そして2019年(平成31年)成立のアイヌ施策推進法(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律)が、法律として初めてアイヌを「先住民族」と明記した(確度★★★)。翌2020年には、北海道白老町に民族共生象徴空間ウポポイが開業し、国立アイヌ民族博物館が置かれた(確度★★★)。

一方で、この法律には土地や資源に対する権利が書かれていないこと、研究の名目で持ち去られた遺骨の返還がいまも続いていることなど、残された論点は多い(確度★★)。川で鮭を獲る権利の確認を求める訴えも起こされている(確度★★)。江戸の場所請負制がアイヌから奪ったのは、取引を選ぶ自由、暮らしの場所、そして自分たちのための漁だった。今の議論の一部は、その延長線の上にある。

史同じころ、世界では — 毛皮を求めた会社と、北の先住民

シャクシャインの戦いの翌年、1670年、イングランド国王の勅許でハドソン湾会社が設立され、北米のハドソン湾に注ぐ川の流域で交易を独占する権利を認められた(確度★★★)。会社は湾岸に交易所を置き、クリーなどの先住民が運んでくるビーバーの毛皮を、鉄器・銃・毛布などと交換した。勘定にはビーバーの毛皮一枚を単位とする基準が使われた(確度★★)。

もう一つ。1799年——幕府が東蝦夷地を直轄にしたのと同じ年——ロシア皇帝の勅許でロシア・アメリカ会社が設立され、アラスカなどでの毛皮事業を独占した(確度★★★)。アリュート(ウナンガン)の人々はラッコ猟に駆り出され、強いられた労働と人口の激減を経験したとされる(確度★★)。蝦夷地へ南下してきたロシアの動きは、この毛皮の事業と地続きだった。

比べるときには注意が要る。遠くの権力が一つの組織に「その土地で取引を独占する権利」を与え、そこに暮らす人々がしだいに条件を決める力を失っていく——という型は似ている。しかし北米では、イギリス系とフランス系の商人が競い合い、先住民の側が取引相手を選べた時期もあった(確度★★)。松前藩の独占とは条件が違う。似た型を見つけて「どこでも同じだった」とまとめるためではなく、どこで道が分かれたかを見るために並べている。

亜アジアのいま — 北東アジアの先住の人々

山丹交易の担い手だったアムール川下流域やサハリンの人々——ニヴフ、ウリチ、ナナイなど——の子孫は、いまロシア連邦の中で「北方の少数先住民族」として扱われ、言葉を次の世代へ渡すことが大きな課題になっている(確度★★)。サハリンや千島に暮らしていたアイヌの多くは、明治8年(1875)の樺太・千島交換条約や、第二次世界大戦の後の移住によって故郷を離れた(確度★★)。

台湾では1990年代の憲法の追加条文で「原住民族」という呼び名が定められ、2005年の原住民族基本法が権利の枠組みを定めた。政府が認定している民族は現在16である(確度★★★)。中国は55の少数民族を認定しているが、「先住民族」という枠組みは用いていない(確度★★)。先にその土地に暮らしていた人々を法律にどう書くかは、国ごとに大きく違う。日本が2019年にようやく法律に書いたことは、この地域の中に置いてみると、その位置がよく見える。

報広告と評判 — 『夷酋列像』は誰のための肖像だったか

寛政2年(1790)ごろ、松前藩の家老でもあった画家・蠣崎波響は、クナシリ・メナシの戦いの鎮圧に協力したアイヌの首長12人の姿を描いた。これが『夷酋列像』である(確度★★★)。絵は京都へ運ばれ、光格天皇の目にも触れたと伝えられ(確度★★)、公家や文人のあいだで評判を呼び、多くの模写が作られた(確度★★)。

だが、これは写生ではない。首長たちは蝦夷錦やロシア風の外套をまとい、鋭い目つきと誇張された体つきで描かれる。異国の装いで飾り立てた「強そうな首長たち」が、そろって松前藩に従っている——そう見せることで、藩は蝦夷地を治める力を都に示そうとした、と考えられている(確度★★)。原本の多くは、1984年にフランスのブザンソンの美術館で見つかった(確度★★)。

本州の人々が蝦夷地について読んだものも、多くは和人の側から書かれていた。工藤平助『赤蝦夷風説考』(天明3年・1783ごろ)はロシアへの警戒を説き、林子平『三国通覧図説』(天明5年・1785)は蝦夷地を国防の地として描いた(確度★★★)。アイヌの暮らしを描いた絵巻『蝦夷島奇観』(寛政年間ごろ)も写されて広まった(確度★★)。アイヌの姿は、国防の話題か、珍しい風俗として本州に届いた。

その中で、幕末に蝦夷地を歩いた松浦武四郎は、請負場所での使役や家族の離散を、名前のあるアイヌ一人ひとりの話として書き留めた(『近世蝦夷人物誌』)。この書は、生前に出版の許しが下りなかったと伝えられる(確度★★)。都で評判になった「飾られた首長の像」と、世に出なかった「名のある人々の記録」。どちらが本州の人々の目に届いたかが、蝦夷地がどう見られていたかを物語っている。

出典・確度 20件 最終確認 2026年10月22日 ひらく
  1. 慶長9年(1604)の徳川家康黒印状による松前氏の対アイヌ交易独占、および「アイヌの往来はアイヌ次第」とする条項 — 北海道史・近世対外関係史の定説。条項の解釈には議論がある ★★★ [A: 定説・一次史料あり]
  2. 松前藩が石高を持たない「無高」の大名とされること、商場知行制、和人地と蝦夷地の区分 — 北海道史の定説 ★★★ [A: 定説]
  3. アイヌが商場制以前は自ら本州北部まで出向いて交易していたとされること — 北海道史・アイヌ史で述べられる ★★ [B: 二次資料]
  4. 米と干鮭の交換比率の切り下げ(米二斗入りの俵から七、八升入りへ) — シャクシャインの戦いの背景として広く引かれるが、数字は史料により幅がある ★★ [B: 通説・数値に幅]
  5. シャクシャインの戦い(寛文9年・1669)、松前泰広の派遣、和睦の席でのシャクシャイン殺害 — 定説。発端(オニビシとの抗争・毒殺の噂)や戦後の起請文の細部は★★ ★★★ [A: 定説]
  6. 場所請負制の成立と運上金、運上屋(会所)、近江商人・飛騨屋などの請負人、アイヌの漁場労働への使役 — 北海道史の定説。広がった時期には地域差がある ★★★ [A: 定説]
  7. 幕末にかけてのアイヌ人口の減少、疫病、番人による暴力と家族の引き離し — 松浦武四郎の記録ほか。人口の数値は推計に幅があるため本文では示していない ★★ [B: 一次記録と二次資料・数値に幅]
  8. クナシリ・メナシの戦い(寛政元年・1789)、和人の死者七十人余り、首長たちの説得、三十人余りの処刑 — 年次と経過は定説。人数と首長の役割の細部は★★ ★★ [A: 定説(人数は幅あり)]
  9. 山丹交易と蝦夷錦(清朝の絹織物がアムール川下流域・サハリンを経て松前へ渡ったこと) — 北方史の定説 ★★★ [A: 定説]
  10. 鰊・〆粕・昆布が北前船で上方へ運ばれ、〆粕が金肥として畿内・瀬戸内の商品作物を支えたこと — 本サイト北前船・百姓たちの江戸時代と同じ根拠。〆粕生産の伸びた時期は★★ ★★★ [A: 定説]
  11. ラクスマンの根室来航(寛政4年・1792)、幕府の蝦夷地直轄(寛政11年・1799 東蝦夷地仮直轄、享和2年・1802 永久直轄、文化4年・1807 全域直轄と松前藩の梁川移封、文政4年・1821 返還、安政2年・1855 再直轄) — 定説。直轄区域の細部は時期により異なる ★★★ [A: 定説]
  12. 直轄期の直捌と、髪型・衣服などの「改俗」の推進 — 北海道史で扱われる。地域・時期による差が大きい ★★ [B: 二次資料]
  13. 北海道旧土人保護法(1899)、アイヌ文化振興法(1997)、国会の先住民族決議(2008)、アイヌ施策推進法(2019)が法律として初めてアイヌを先住民族と明記したこと — 法令本文はe-Gov法令検索で確認できる ★★★ [A: 公的資料]
  14. 民族共生象徴空間ウポポイ(北海道白老町、2020年開業)と国立アイヌ民族博物館 — ウポポイ公式サイト ★★★ [A: 公的機関]
  15. 先住権が法律に書かれていないという論点、遺骨返還、鮭漁の権利をめぐる訴え — 各種報道・研究で扱われる現在進行中の論点 ★★ [B: 現代資料]
  16. ハドソン湾会社(1670年設立)とビーバー毛皮を単位とする交易、ロシア・アメリカ会社(1799年設立)とアリュートの強いられた労働、英仏商人の競合 — 北米・ロシア史の定説。労働と人口減少の程度、競合の時期の評価は★★ ★★★ [A: 定説]
  17. ニヴフ・ウリチ・ナナイなどの現在、サハリン・千島のアイヌの移住、台湾の原住民族(憲法の追加条文・2005年の原住民族基本法・16民族の認定)、中国の55の少数民族 — 各国の公的資料・研究による。ロシア・中国についての記述は★★ ★★ [B: 現代資料]
  18. 蠣崎波響『夷酋列像』(寛政2年・1790ごろ、首長12人)、京都での天覧の伝え、模写の流布、1984年のブザンソンでの原本発見、藩の立場から異国風に誇張した像とする見方 — 美術史・北海道史の研究による。図版は函館市中央図書館蔵、Wikimedia Commons(パブリックドメイン) ★★ [B: 研究による解釈を含む]
  19. 工藤平助『赤蝦夷風説考』、林子平『三国通覧図説』(天明5年・1785)、『蝦夷島奇観』 — 刊本・写本は国立国会図書館ほかで確認できる。『蝦夷島奇観』の成立年は★★ ★★★ [S: 一次史料]
  20. 松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』の内容と、生前に出版が許されなかったと伝えられること、および本記事の「交易の相手が働き手に変えられた」「一本の鎖」という整理 — 個々の事実は上記出典に基づくが、論の運びは本サイトによる再構成 ★ [F: 再構成]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年10月22日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20261023 0727