釜山を出た船が対馬に着き、瀬戸内海を東へ進み、大坂から陸路で江戸へ向かう。四百人を超える隊列が街道を進むたび、沿道には人が集まった。江戸時代の日本を訪れた最大規模の外国使節、朝鮮通信使である。ただしこの往来を「友好の象徴」という一語で括ると、その手前にあるものが見えなくなる。通信使が始まったのは、日本が朝鮮に仕掛けた侵略戦争が終わった直後だった。
組しくみ — 戦争の後始末として始まった往来
まず、前提となる出来事を薄めずに置く。天正20年/文禄元年(1592)から慶長3年(1598)まで、豊臣秀吉は二度にわたって朝鮮へ大軍を送った。文禄・慶長の役である。戦場となったのは朝鮮半島であり、被害を受けたのは朝鮮の人々だった。人口の減少、耕地の荒廃、都市と寺院の焼失、書籍や文化財の略奪。そして数万人規模ともいわれる人々が捕虜として日本へ連行された(被虜人。連行者数の推計には研究により大きな幅がある)。有田焼や薩摩焼など、日本の陶磁器産業の起点に朝鮮から連れて来られた陶工がいることも、この戦争の帰結である。侵略した側とされた側は対等ではない。通信使の話は、この非対称からしか始められない。
戦後、国交は断絶した。それを回復させる作業は、日本側の善意から始まったのではない。動いた要因はいくつも重なっている。朝鮮側には、北方の女真(のちの清)勢力の圧力が高まるなかで南の国境を安定させたいという安全保障上の必要があり、何より連行された同胞を取り戻したいという切実な目的があった。徳川政権の側には、豊臣とは別の政権であることを内外に示し、統治の正統性を固めたいという事情があった。そしてもっとも必死だったのが、朝鮮との交易なしには成り立たない対馬の宗氏である。
慶長12年(1607)、朝鮮からの使節が江戸へ来る。ただし初期の三回(1607・1617・1624)の正式名称は「通信使」ではなく回答兼刷還使——日本側の国書への「回答」と、被虜人の「刷還」(送還)を任務とする使節だった。名称そのものが目的を語っている。通信使(「信=よしみ」を通わす使節)の名で呼ばれるようになるのは、寛永13年(1636)の第4回からである。以後、来日の主な名目は将軍の代替わりの慶賀となり、最後の文化8年(1811)まで、江戸時代を通じて計12回の使節が来日した。
対馬は出島の記事で見た「四つの口」——長崎(オランダ・中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)——のうちの対馬口にあたる。宗氏は釜山に置かれた倭館を拠点に日常的な貿易と交渉を担い、通信使の往来のときには接待・輸送・通訳を含む実務全体を取り仕切った。江戸幕府の対外関係は、幕府が直接すべてを握る形ではなく、こうした窓口の家に委任する形で動いていた。
一行の規模は回によって差があるが、おおむね400〜500人。正使・副使・従事官の三使を筆頭に、製述官・書記・医員・画員・楽隊・馬上才(曲馬の芸人)・通訳・雑役が加わる。釜山を出て対馬・壱岐・藍島を経て下関へ入り、瀬戸内海を船で東進して大坂へ。淀から陸路に移り、京都を経て東海道を江戸へ向かう。片道でおよそ半年、往復で八か月から一年に及ぶ長旅だった。
今江戸と今 — 国賓受け入れという巨大事業
五百人の外国使節を半年間もてなす。この一文が意味する実務量は膨大である。宿舎の確保と改修、食材の調達(宗教的・文化的な食の違いへの配慮を含む)、川を渡るための船橋の架設、荷物を運ぶ人足と馬の手配、警備、そして贈答品。通過する街道沿いの藩には接待の負担が割り当てられ、その費用は藩財政を強く圧迫した。使節の通行に合わせて道や橋が整備されることもあり、負担は最終的に村と百姓の人足役や物資供出として下りていった。
- ロジスティクス — 数百人規模の隊列を、宿場ごとの収容能力に合わせて分割・移動させる計画立案。街道の宿駅制度がそのまま外交インフラとして使われた。
- プロトコル — 国書の受け渡し方、席次、称号の表記。どの語を使うかが両国の対等性の解釈に直結するため、文言は毎回交渉の対象になった。
- コスト管理 — 正徳元年(1711)の第8回では、新井白石の主導で待遇が簡素化され、将軍の称号表記も「日本国王」へ変更された。ただしこの改変は次の享保4年(1719)の回で元へ戻されている。
現代の国賓来日や国際イベントの受け入れと、構造はよく似ている。威信のための投資と、それを負担する現場との落差。効果が見えにくい費用をどこまで許容するかという議論。白石の簡素化とその揺り戻しは、外交儀礼の費用対効果をめぐる論争が三百年前にも同じ形で起きていたことを示している。
史同じころ、世界では — 使節が行き来する外交と、大使館が常駐する外交
通信使の時代、東アジアの国際秩序は大きく揺れていた。1644年に明が滅び、清が中国を支配する。朝鮮はすでに1637年に清へ服属を強いられており、清に朝貢しながらも内心では明の文化的後継者を自任する意識(いわゆる小中華)を抱えていた。日本は清と正式な国交を持たず、長崎で私貿易のみを行う関係を続ける。つまり日朝の往来は、両国がそれぞれ中国大陸の巨大な変動と距離を測りながら、その外側で維持した二国間関係だった。
同じころ幕府は、琉球からの使節も受け入れていた。国王の代替わりごとの謝恩使、将軍の代替わりごとの慶賀使が江戸へ上る「江戸上り」である。異国の装束の行列が将軍のもとへ参る光景は、幕府の権威を可視化する演出として機能した。使節を迎える側が、その来訪を国内向けの政治的資源として使う——これは通信使についても同様に指摘されており、同じ行列が、日本側では将軍の徳を慕って来た使者として語られ、朝鮮側では対等な隣国への外交使節と位置づけられるという解釈のずれを抱えたまま続いた。
一方、同時期のヨーロッパでは、ウェストファリア条約(1648)以降、主権国家間の関係を常駐の大使館で日常的に処理する方式が定着していく。使節が数年に一度、数百人で往復する東アジアの様式とは対照的である。どちらが優れているという話ではない。ただ、常駐機関を持たない関係は、二百年の間に一度も戦争を起こさなかった代わりに、互いの内情をリアルタイムで知る手段を持たなかった。19世紀に事態が急変したとき、その差が効いてくることになる。
亜アジアのいま — 「世界の記憶」に登録されるまで
文化8年(1811)、第12回の使節は江戸まで来なかった。対馬で国書を交換する易地聘礼(場所を替えて礼を行う)という形式が採られたのである。背景には幕府と対馬藩双方の深刻な財政難があり、松平定信の主導した構想がその起点にあったとされる。この回を最後に使節の派遣は途絶え、以後、幕末の政治的混乱のなかで往来が再開されることはなかった。二百年続いた制度は、戦争でも決裂でもなく、費用が続かなくなって静かに終わった。
それから二百年余りを経た2017年、「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコの「世界の記憶」(Memory of the World)に登録された。特筆すべきは、これが日本と韓国の民間団体による共同申請だったことである。日韓それぞれが所蔵する外交記録・行列図・詩文集などが一括して登録対象となり、登録点数は計333点(日本側209点、韓国側124点)とされる。国家間の記憶をめぐる議論がしばしば紛糾する分野で、両国の市民が同じ史料群を共同の遺産として申請した事例にあたる。
各地には往来の痕跡が残る。対馬の厳原では毎年、通信使の行列を再現する催しが行われ、下関、瀬戸内の牛窓、静岡の清見寺など、宿泊地や休憩地となった土地には関連する遺物や記録が伝わっている。祭りに残る「唐人踊り」のように、通信使の楽隊や行列が民俗芸能に影響を与えたとされる例も各地にあるが、伝承の系譜が史料で厳密に追えるものばかりではなく、後年の解釈が加わっている場合もある★★。
報広告と評判 — 沿道に詰めかけた文人たち
通信使の通行は、沿道の人々にとって一生に一度あるかないかの見世物だった。行列を描いた絵巻や刷り物が多数つくられ、宿場では見物人が道を埋めた。異国の装束、楽器の音、馬上才の曲乗り——その情報価値は、瓦版が扱う出来事と同じ市場の中にあった。
だが通信使が他の見世物と決定的に違ったのは、知識人にとっての意味である。一行には製述官・書記といった詩文の専門家が加わっており、彼らは当時の東アジアで共通の教養言語だった漢文の使い手だった。使節が宿舎に入ると、各地の儒者・医者・僧侶・文人がそこへ詰めかける。自作の詩を差し出して返答を求め、その場で応酬する。声に出す言葉は通じなくても、筆で漢詩を書けば通じる——この筆談唱和が、通信使の来日ごとに日本各地で繰り返された。
やり取りの記録は『和韓唱和録』の類の書物として出版され、市中に流通した。一行の書家や画員が書いた文字や絵は珍重され、揮毫を求める人が押しかけたと伝わる。医員には日本の医者が疑問を持ち込み、実務的な情報交換が行われた。つまり通信使の往来は儀礼の場であると同時に、数十年に一度、国境を越えて開かれる学術と芸術の交流の場だった。
だからこそ、通信使を語ることには現在的な意味がある。加害の事実を確認したうえで、それでも人と人が詩を交わした記録が残っているという二重性。歴史を単純な物語にしないための素材として、この二百年の往来はよく出来ている。
出典・確度
- 朝鮮通信使の来日回数(12回・1607〜1811)および初期3回が「回答兼刷還使」と呼ばれたこと、1636年の第4回から「通信使」の名称が用いられたこと — 日朝関係史の定説 ★★★ [A: 学術定説]
- 文禄・慶長の役(1592〜98)と朝鮮側の被害、被虜人の連行および刷還交渉 — 一次史料の裏づけがある定説。ただし連行者数の推計には研究により大きな幅があるため、本文では概数を示さず「数万人規模ともいわれる」と記した ★★★/数値は★★ [A: 定説(人数は幅あり)]
- 柳川一件(寛永12年/1635)— 対馬藩による国書改竄の発覚と、将軍家光の親裁、以酊庵輪番制の成立 ★★★ [A: 学術定説]
- 「四つの口」(長崎・対馬・薩摩・松前)論 — 荒野泰典らの研究以降に定着した学術的枠組み。現行の教科書記述でも主流 ★★★ [A: 学術定説]
- 一行の規模(400〜500人)と行程(釜山→対馬→瀬戸内海→大坂→江戸、片道約半年)— 各回の記録に基づく概数で、回による差がある ★★★/各回の内訳は★★ [A: 定説(回により差)]
- 正徳元年(1711)の新井白石による待遇簡素化と「日本国王」号の採用、享保4年(1719)の復旧 — 定説 ★★★ [A: 学術定説]
- 文化8年(1811)の易地聘礼(対馬での国書交換)と、その背景にある幕府・対馬藩の財政難 ★★★ [A: 学術定説]
- 2017年、ユネスコ「世界の記憶」への「朝鮮通信使に関する記録」登録(日韓の民間団体による共同申請、計333点/日本側209点・韓国側124点)— 登録主体の公表資料および朝鮮通信使縁地連絡協議会の発表による ★★★ [A: 公的機関・公表資料]
- 筆談唱和と『和韓唱和録』等の刊行、揮毫を求める人々の殺到 — 同時代の刊本が現存する ★★★ [S: 一次史料あり]
- 各地の「唐人踊り」など民俗芸能への影響 — 通信使との関連が語られるが、伝承の系譜を史料で厳密に追えない例もあり、後年の解釈が加わっている場合がある ★★ [B: 通説]