前編「女の一生」では、家という制度のなかで女性がどう位置づけられたかを見た。家長にはなれない、離縁状は形式上夫が書く——制度の側だけを見ると、そこで話が終わってしまいそうになる。だがこの記事はその先を扱う。実際に女性は何をして稼ぎ、どこまで学ぶことができたか。名の付いた仕事を具体的に並べ、読み書きがどこまで届いたかを追う。そして最後に、この記事全体が抱える一つの制約——史料の書き手がほぼ男性であり、女性自身の言葉で書かれた記録がほとんど残っていないこと——を検討する。
組しくみ① 女が実際に担っていた仕事 — 具体的に並べる
「女性も働いていた」では抽象的すぎる。何をしていたのか、具体的に並べる。
- 内職 — 長屋の女性の代表的な稼ぎ口。針仕事(縫い物・仕立て直し)、袋貼り、糸繰り、造花、楊枝削り。九尺二間の部屋で、道具を広げずにできる作業が選ばれる。単価は極めて低く、日銭の足しにする性格のものだった。
- 機織りと糸取り — 農村では女性の労働として決定的に重要である。桑を摘み、蚕を飼い、繭から糸を取り、機を織る。この工程はほぼ女性が担った。織物が商品として流通する地域では、これが家の現金収入の柱になる。「男は米、女は糸」という分業が成立していた地域がある。
- 行商 — 天秤棒や籠を担いで売り歩く。棒手振りの多くは男だが、女性が担った品目もある。大原女(京都近郊から薪炭を頭に載せて京へ運ぶ)、白川女(花を売る)などは絵にも記録にも残る。江戸でも野菜や小間物を売り歩く女性がいた。
- 髪結 — 女髪結は江戸後期に成立した女性の職業である。他人の髪を結って銭を取る。ところがこれは幕府に繰り返し禁じられた。奢侈にあたる、風俗を乱すという理由である。禁じられたということは、それだけ需要があり、稼げたということでもある(確度★★)。
- 水商売 — 水茶屋の茶汲女、料理屋の酌取、そして煮売り酒屋の給仕。客に飲食を出すこの領域は、女性の稼ぎ口として大きい。同時に、遊女奉公との境界が曖昧になりやすい危うい領域でもあった。
- 店の帳面 — 商家の女房(内儀・おかみさん)が、実質的に帳簿と現金を管理した例は多い。仕入れ先との掛け合い、奉公人の差配、日々の勘定。表に立つのは主人だが、店を回しているのは内儀であるという構図が、商家の記録や随筆に繰り返し現れる(確度★★)。
- 農作業 — 言うまでもなく、田植え、草取り、収穫の主力である。百姓の家で女性が田に出ないという状況は考えにくい。
組しくみ② 読み書きと『女大学』 — 教わったこと、教わらなかったこと
江戸の女性はどれだけ字が読めたのか。これも確たる統計はないが、いくつかのことは言える。
寺子屋には女児も通った。ただし通う割合は男児より低く、通う年数も短い傾向があったとされる。学ぶ内容も男女で違い、女児には手紙の書き方、裁縫、行儀作法といった実用と躾に重心が置かれた。読み書きの機会に性差があったことは、教育史の共通理解である(確度★★)。
参考までに時代を下げると、明治6年(1873)に始まる学制初期の就学率は、男子に比べて女子が大幅に低い水準から出発したことが文部省の統計に記録されている。江戸から明治への連続として、教育機会の性差は持ち越された(確度★★★、ただしこれは明治の数字であり江戸期の推定に直結はしない)。
女性向けの教訓書としてもっとも知られるのが『女大学』である。享保元年(1716)ごろに『女大学宝箱』として刊行されたものが広く流布し、以後、幕末から明治にかけて無数の異版・派生本が作られた。内容は儒教的な女徳の説示で、夫と舅姑への従順、嫉妬の戒め、貞節などを説く。
この本については、貝原益軒の著作とされることが多いが、益軒自身が書いたものかどうかには議論がある。益軒の『和俗童子訓』(宝永7年・1710)に含まれる女子教育の記述をもとに、書肆が編み直したものとする見方が有力とされる。著者の帰属を断定しないのが妥当である(確度★★)。
そして重要なのは、『女大学』が版を重ねたという事実の読み方である。売れたのだから広く受け入れられていた、と読むこともできる。だが同時に、こうした規範書が繰り返し出版され、贈答用の装丁で嫁入り道具に加えられたということは、規範を教え込む必要が繰り返し感じられていたことも意味する。福澤諭吉が明治期に『女大学評論・新女大学』(明治32年・1899)を書いて批判の対象としたのも、それが現に力を持ち続けていたからである。
今江戸と今 — 働くことは新しくない。差が残っているだけだ
江戸の庶民女性は「働きながら子を育てる」ことが標準だった。育児と労働が分離していなかったからである。専業主婦という形が広く成立するのは、給与所得者世帯が増えた近代以降、とくに戦後の高度成長期においてである。つまり「働く女性」は新しい現象ではなく、むしろ「働かない女性」のほうが歴史的に新しかった。この順序を取り違えると、現代の議論の前提を間違える。
では現代はどうか。家事・育児・介護といった無償労働の負担が女性に偏る傾向、管理職比率の差、賃金の差。これらは各種の公的統計(総務省「労働力調査」「社会生活基本調査」、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」など)に継続して現れている。数値は年ごとに動くのでここでは具体値を挙げないが、差が縮小しつつも残っているという傾向は、複数の統計で一致している(確度★★★)。
江戸の内職が「単価は低いが家計に不可欠」だったのと同じ構図が、現代の非正規雇用にも見える。パート・アルバイトなど非正規雇用の比率は女性のほうが高い水準にあることが労働力調査で継続して示され、出産・育児期に就業率がいったん落ち込み、その後回復するいわゆるM字カーブは、近年は台形に近づきつつも完全には解消していないとされる(確度★★★)。江戸で「女の稼ぎは家計の補助ではなく必須構成要素だった」ことと、現代で「女性の労働は基幹的でありながら非正規化しやすい」こととは、形を変えた同じ緊張関係だと言える。
史同じころ、世界では — 欧州で女が就けた仕事
18〜19世紀のヨーロッパでも、女性は広範囲に働いていた。もっとも大きな雇用先は家事使用人(domestic service)である。都市の中流・上流家庭に住み込みで仕えるメイドは、この時期のヨーロッパで女性が就いた職業のうちもっとも人数の多いものの一つだったとされる(確度★★★)。
もう一つの大きな領域が繊維業である。糸紡ぎ、織物、レース編みは女性の手仕事として広く行われ、家内工業(プロト工業化)の担い手だった。18世紀末からの産業革命期には、イギリスの紡績工場が女性と児童を大量に雇用したことが知られている。低賃金で長時間働かせられる労働力として位置づけられた面が強く、労働条件の劣悪さは当時から問題視され、19世紀の工場法による児童・女性労働の規制につながった(確度★★★)。
職人の世界では事情が違った。多くの手工業ギルド(同業組合)は正規の徒弟・親方資格を男性に限っており、女性の参入は制限されていた。ただし例外もある。夫を亡くした未亡人が夫の工房と組合資格を一定期間引き継ぐ慣行が各地のギルド規約に見られ、また帽子製造や刺繍など、女性が主体となる職種も存在した(確度★★)。
こうして並べると、「女性は家事使用人・繊維業という単価の低い領域に厚く分布し、組合が守る高単価の職人領域からは排除されがちだった」という構図は、江戸の女髪結が繰り返し禁令の対象になった構図——稼げる仕事ほど統制がかかる——と、統制のかかり方は違えど、同じ緊張を抱えている。
亜アジアのいま — 識字の男女差は、どこまで縮んだか
寺子屋の女児就学率が男児より低かったという江戸の構図は、現代の世界にもまだ形を変えて残っている。ユネスコ(国連教育科学文化機関)が集計する成人識字率の統計では、世界全体で男女差は大きく縮小してきたが、地域によって残り方が大きく異なることが示される(確度★★★、数値は毎年更新される)。
東アジア・東南アジアの多くの国・地域では、成人の識字率における男女差はすでにきわめて小さい水準まで縮まっているとされる。一方で南アジアの一部の国では、成人女性の識字率が成人男性を大きく下回る状態が続いていることが、ユネスコ統計研究所の集計で継続して報告されている(確度★★★、国によって差が大きく、単一の数値で語れない)。
この差を生む要因として指摘されるのは、江戸の寺子屋の説明とよく似ている。早婚による就学の中断、家事労働の負担、そして「女子に教育は必要ない」という規範である。規範が識字率という数字に直接反映される、という構図は、時代と地域を超えて繰り返し現れる。江戸で『女大学』が女性の役割を規定しようとしたように、規範は制度の外側からも学びの機会を狭める力を持つ。
報広告と評判 — 描かれた女に、声はない
江戸の商売にとって、女性は二重の存在だった。買う客であり、同時に売り物としてのイメージでもあった。
まず客としての女性である。白粉、紅、櫛、簪、鏡、髪油、手拭。化粧と装身の品は江戸の重要な商品群であり、引札で盛んに宣伝された。とくに紅は高価な品で、上等な紅は同じ重さの金に匹敵するとまで言われた——という語り口が伝わるが、これは誇張を含む言い回しとして扱うべきである(確度★)。確かなのは、紅が贅沢品であり、値の張る商品として扱われたことである。
次にイメージとしての女性である。錦絵の一大ジャンルである美人画は、実在の町娘を描いて売った。明和期(1764〜1772)に鈴木春信が描いた谷中・笠森稲荷の水茶屋の娘お仙は、絵によって評判となり、店に客が押し寄せたと伝えられる。寛政期(1789〜1801)には喜多川歌麿が「寛政三美人」として難波屋おきた、高島おひさ、富本豊雛を描いた。町娘の顔が版画になって流通するという構図は、現代の広告・アイドル産業の直接の祖型といってよい。
ここで、この記事全体が抱える制約に触れておかなければならない。お仙が何を考え、何を望み、この評判をどう受け止めていたかを示す、お仙自身の言葉は一つも残っていない。残っているのは春信が描いた絵と、周囲がそれをどう消費したかを記録した文章だけである。これは特殊な例外ではない。この記事に並べた内職の単価も、女髪結の稼ぎも、内儀が帳簿を管理していたという証言も、その大半が男性の書き手——儒者、武士、商家の当主、戯作者——によって記録されたものである。江戸時代に書かれ、現在まで伝わる文章の圧倒的多数は男性の手になるものであり、女性が一人称で書いた記録は数えるほどしかない。
つまりこの記事は、女性が何をしていたかを、できる限り史料に基づいて再構成したものであって、女性自身がそれをどう感じていたかを直接語るものではない。この限界を明示せずに「江戸の女性は」と書き続けることは、書き手の視点を実態そのものと取り違える危険を伴う。読む側も、この限界を踏まえて読む必要がある。
出典・確度 17件 最終確認 2026年8月27日 ひらく
- 内職(針仕事・袋貼り・糸繰り等)が長屋の女性の稼ぎ口だったこと — 都市下層社会史で広く記述される。個別の単価を示す確かな一次史料は乏しい ★★ [B: 二次資料・数値は不確定]
- 養蚕・糸取り・機織りが主として女性の労働だったこと — 近世産業史・民俗の定説。地域による差がある ★★★ [A: 定説]
- 大原女・白川女など、女性が担った行商の形態 — 京都近郊の民俗として広く記録され、絵画資料にも現れる ★★★ [A: 定説]
- 女髪結という職業の成立と、幕府による繰り返しの禁令 — 近世風俗史で扱われる。禁令の年次・文言は複数あり、取り締まりの徹底度も一様でない ★★ [B: 二次資料・複数の触]
- 商家の内儀が帳簿と現金の管理、奉公人の差配を担った例 — 商家文書・随筆類に現れる。比率を示す統計は無い ★★ [B: 事例は実在/頻度は不明]
- 寺子屋に女児も通ったが、就学率・通学年数・学習内容に性差があったこと — 教育史の共通理解(本サイト寺子屋と同水準)。江戸期の就学率を示す全国統計は存在しない ★★ [B: 定説だが統計なし]
- 明治6年(1873)以降の学制初期において女子就学率が男子より大幅に低かったこと — 文部省(現・文部科学省)の年報等に記録される公的統計 ★★★ [A: 公的統計]
- 『女大学宝箱』が享保元年(1716)ごろ刊行され広く流布したこと、および貝原益軒の著作とする通説に議論があること — 刊本類は国立国会図書館デジタルコレクションで公開。著者帰属は断定を避けるべき ★★ [B: 刊本は実在/著者に議論]
- 貝原益軒『和俗童子訓』宝永7年(1710)刊、福澤諭吉『女大学評論・新女大学』明治32年(1899) — 刊本はNDLデジタルコレクションで公開 ★★★ [S: 一次史料]
- 現代日本における無償労働の負担、管理職比率、賃金の男女差、非正規雇用比率の差、M字カーブの残存 — 総務省統計局「労働力調査」「社会生活基本調査」、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」等の公的統計に継続して現れる ★★★ [A: 公的統計]
- 18〜19世紀ヨーロッパにおいて家事使用人が女性の主要な就労先の一つだったこと — 欧州社会経済史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 産業革命期イギリスの紡績工場が女性・児童を大量に雇用し、後に工場法による規制対象となったこと — 定説 ★★★ [A: 定説]
- 近世欧州の手工業ギルドが多くの場合、正規資格を男性に限っていたこと。未亡人による工房継承等の例外があったこと — 欧州経済史で広く扱われる ★★ [B: 定説だが地域差あり]
- 世界の成人識字率における男女差、および地域差(東アジア・東南アジアで縮小、南アジアの一部で残存) — ユネスコ統計研究所(UIS)の集計。数値は毎年更新される ★★★ [A: 国際機関]
- 明和期(1764〜1772)に鈴木春信が笠森稲荷の水茶屋の娘お仙を描き、店が繁盛したと伝えられること — 浮世絵史・風俗史で広く紹介される。繁盛の程度を示す一次史料は乏しく、逸話的要素を含む ★★ [B: 絵は実在/逸話に脚色の可能性]
- 寛政期(1789〜1801)に喜多川歌麿が難波屋おきた・高島おひさ・富本豊雛を描いたこと(いわゆる寛政三美人) — 浮世絵史の定説。作品は各美術館に伝来する ★★★ [A: 定説・作品現存]
- 只野真葛(1763〜1825)が随筆『独考』等を著したこと、井関隆子(1785〜1844)が『井関隆子日記』を残したこと — 国文学・近世文学史で確認される実在の人物と著作 ★★★ [A: 定説]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月27日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。