現代の化粧品売り場には、数え切れない色が並んでいる。江戸の化粧には、それがなかった。使える色は白と赤と黒——白粉の白、紅の赤、お歯黒と眉墨の黒。この三色ですべてを組み立てる。色数が少ないということは、選択の幅が狭いということであると同時に、それぞれの色が意味を背負っていたということでもある。何色を差すかではなく、その色を差してよい立場かどうかが問われる化粧だった。
組しくみ① 白 — 白粉と、その毒性
化粧の基礎は白粉(おしろい)である。顔・首・胸元を白く塗る。江戸の照明は行灯の乏しい灯りであり、その中で顔を明るく見せる効果は大きかった。
白粉には大きく二系統があった。
- 鉛白粉(なまりおしろい) — 主成分は鉛白(塩基性炭酸鉛)。鉛を酢の蒸気などに触れさせて表面に生じた白い粉を掻き取って作る。伸びがよく、白さと付きが優れており、江戸期の主力だった。
- 軽粉(けいふん・はらや) — 水銀を原料とする白い粉。こちらも化粧に用いられたほか、薬としても使われた。
- 米粉・貝殻由来の粉など — 鉱物を使わない白粉も存在したが、仕上がりと持ちで劣り、主流にはならなかった。
害が知られていなかったわけではない。江戸期にも白粉の使用と体調不良を結びつける言及はあり、明治期には「白粉毒」として社会問題として論じられるようになる。日本で無鉛白粉の開発・普及が進むのは明治末から大正期にかけてであり、鉛白粉の製造・販売が法的に規制されるのはさらに後のことである。つまり毒性の認識から実際の追放までに、数十年の遅れがあった。
塗り方にも作法があった。水で溶いて刷毛や指で伸ばす。首筋の襟足に地肌を残す「襟足の抜き方」は、着物の後ろ姿を美しく見せるための技法で、二本足・三本足といった型が語られる。厚さの加減、境目のぼかし方、日常用と晴れの日用の違い——白一色でありながら、その扱いには相当の技術が求められた。
組しくみ② 赤 — 紅と、玉虫色の謎
唇と目元、そして頬に差すのが紅(べに)である。原料は紅花(べにばな)。花弁に含まれる色素のうち、大部分を占める黄色を水で洗い流し、わずかしか含まれない赤の色素だけを取り出す。この歩留まりの悪さが、紅を高価にした。
紅花の産地として名高いのが出羽の最上(もがみ)で、山形周辺で採れた紅花は舟運によって京都へ運ばれ、そこで紅として製品化された。原料の産地と加工地が遠く離れた、典型的な近世の商品作物である。
製品としての紅は、小さな器——猪口(ちょこ)や貝——の内側に塗って乾かした形で売られた。ここで面白い現象が起きる。良質の紅を厚く塗って乾かすと、表面が赤ではなく玉虫色(緑がかった金属光沢)に光る。水を含ませた筆で溶くと本来の赤に戻る。この光沢が上質の証とされ、玉虫色に光る紅こそが最上と珍重された。買う側は、器の中の緑色を見て赤の質を判断していたことになる。
紅は高価だった。「紅一匁、金一匁」という言い回しが伝えられるが、これは希少さを強調した表現であり、そのままの交換比率を示す記録として扱うことはできない(確度★★)。ただし庶民が気軽に大量に使える品でなかったことは確かで、少量を丁寧に使うのが普通だった。
使い方の流行もあった。文化・文政期(19世紀初頭)に流行したとされる笹紅(ささべに・笹色紅)は、下唇に紅を厚く重ね、あの玉虫色の光沢が唇に出るようにする化粧である。高価な紅を惜しみなく使う点で贅沢の誇示でもあり、下地に墨を用いる工夫があったとも伝えられる(確度★★)。錦絵にこの唇が描かれ、流行が視覚的に伝播した。
組しくみ③ 黒 — お歯黒と引眉は、身の上を告げる記号だった
三つめの色、黒。ここが江戸の化粧のもっとも特徴的な部分である。これは美しさのためというより、身分と立場を示す記号だった。
お歯黒(鉄漿・かね)は、歯を黒く染める化粧である。作り方はおおよそこうだ。鉄片(古釘など)を茶や酢、米のとぎ汁などに浸して発酵させ、鉄の溶けた鉄漿水(かねみず)を作る。これに五倍子粉(ふしこ)——ヌルデにできる虫瘤を粉にしたもので、タンニンを豊富に含む——を合わせて歯に塗る。鉄とタンニンが結びついて黒く発色する。手間がかかるうえ独特の臭いがあり、色を保つには数日おきに塗り直す必要があった。
そして引眉(ひきまゆ)・眉剃り。眉を剃り落とし、あるいは抜いて、そのままにするか、額の高い位置に眉墨で描く。
問題はこれらがいつ行われたかである。町人の場合、一般的な理解としては——
ただしこの段階の区切りは、地域・階層・時期によってかなりの差がある。未婚でも一定の年齢で始める例、逆に出産まで眉を残す例など、慣行は一様ではない。「お歯黒=既婚、眉なし=出産済み」という説明は目安として有効だが、全国一律の規則ではない(確度★★)。
なお、お歯黒には実利もあったとされる。鉄とタンニンの被膜が歯を覆うことで虫歯を抑える効果があったとする指摘があり、実際に近世の人骨の調査から議論されているが、効果の程度については評価が分かれる(確度★★)。
組しくみ④ 髪と装い — 何を着てよいかが決まっていた
化粧が三色なら、髪は形で語った。女性の髪型は島田・勝山・兵庫・丸髷・銀杏返しなど数多くの型があり、年齢・未婚既婚・職業・階層によって結うべき形がおおむね決まっていた。髪型を見れば身の上が推測できた点で、お歯黒と同じ働きをしている。
結うには髪油が要る。鬢付け油(びんつけあぶら)で毛をまとめ、形を固める。伽羅の油(きゃらのあぶら)と呼ばれる高級品もあった。油で固めた髪は数日から場合によっては十日近く保ち、そのぶん洗髪の頻度は低い。寝るときは箱枕で首を支え、結い上げた髪を崩さないようにする。
これを結うのが髪結(かみゆい)である。男の髪結は月代(さかやき)を剃り髷を結い、女の髪は女髪結が結う。ただし女髪結については、贅沢を助長するとして幕府が繰り返し取り締まりの対象としたことが知られる。禁じても繰り返し禁令が出るということは、需要が消えなかったということでもある(確度★★)。髪結の代金については銭の使い方で扱った。
そして装いそのものにも枠があった。幕府は奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を繰り返し発している。享保・寛政・天保の改革ではとくに厳しく、身分に応じて着てよい素材・色・柄が制限され、町人が絹の高級品や華美な模様を用いることが禁じられた。着物の側から見れば、これは服装が身分表示の装置であることを維持しようとする政策である。
もっとも、禁じられれば抜け道が生まれる。表地を地味にして裏地に贅を凝らす、遠目には無地に見える細かな柄(江戸小紋)を用いる、といった工夫が発達した。「粋(いき)」という美意識の一部は、この制約から生まれた技術である。禁令が美学を作ったという逆説がここにある。
今江戸と今 — 三色はいつ、どう終わったか
この化粧体系は、明治に入って急速に解体する。
お歯黒と引眉は、明治政府の方針転換で表舞台から退いた。明治3年(1870)に皇族・華族に対して鉄漿と引眉をやめることを認める(あるいは禁じる)内容の布告が出され、明治6年(1873)には皇后がお歯黒と引眉をやめたとされる。上からの範例が示されたことで、これらは急速に「旧習」と位置づけられていった。ただし地方では明治後期から大正期まで習慣が残った地域もあり、一片の布告で一夜にして消えたわけではない(確度★★)。
鉛白粉はもっと長引いた。毒性の指摘があっても、代替品の性能が追いつかなければ使われ続ける。無鉛白粉の開発と普及、そして法規制を経て、ようやく市場から退場した。健康被害が知られてから実際に使われなくなるまでに、世代をまたぐ時間がかかったという点は、現代の製品規制を考えるうえでも示唆的である。
紅は、化学合成染料の登場で立場が変わった。安価で発色の安定した合成色素が入ってくれば、紅花から手間をかけて採る紅は競争力を失う。紅花栽培は衰退し、いまは伝統工芸と地域文化として一部が続いている。
そして現代との最大の違いは、化粧が身分の記号ではなくなったことである。誰が何色を使ってよいかという規則は消えた。だが完全に自由になったのかといえば、職場・年齢・性別・場面に応じた「期待される装い」は形を変えて存在し続けている。規則が法から空気に変わっただけだと見ることもできる。
史同じころ、世界では — 白い顔と、同じ鉛
顔を白く塗る化粧は、江戸の専売ではない。16〜18世紀のヨーロッパでも白い肌が理想とされ、ヴェネツィアン・セルース(Venetian ceruse)と呼ばれる鉛白ベースの白粉が用いられた。エリザベス1世の白い顔がよく引き合いに出される。原料も、そして毒性も、江戸の鉛白粉とまったく同じである。
被害も同じように出た。鉛中毒による肌の荒れ、脱毛、体調の悪化。そして肌が荒れればさらに厚く塗って隠すという悪循環に陥る。18世紀のイギリスでは、白粉による健康被害が社会的な話題となった例が知られている。水銀を含む化粧品も同様に用いられ、同様の害をもたらした。
離れた社会が、独立に同じ材料に行き着き、同じ害を被った。これは偶然ではない。当時の技術で入手できる、白く・伸びがよく・付きの良い顔料が、鉛白と水銀化合物しかなかったからである。美意識が普遍だったのではなく、選択肢が同じように限られていたのである。
一方で、既婚を示す身体的な標識という点では違いもある。ヨーロッパでは指輪や被り物(ボンネット・キャップ)が既婚のしるしとして機能した。身体そのものを変えるか、身につけるもので示すか——江戸のお歯黒は前者を選んだ点で、より不可逆的だった。
亜アジアのいま — 白い肌をめぐる、続いている問題
肌を白く見せたいという需要は、アジアの広い範囲で現在も強い。美白化粧品の市場は大きく、広告表現をめぐる議論も続いている。近年は「ホワイトニング」という語そのものが植民地主義的・差別的な含意を持つとして、表現を見直す動きが国際的な化粧品企業のあいだで進んだ。
そして深刻なのが成分の問題である。世界保健機関(WHO)は、水銀を含む美白クリームの健康被害について繰り返し警告を発している。水銀は皮膚から吸収されて腎障害や神経障害を引き起こしうるが、規制の緩い流通経路を通じて、いまも各地で販売されている。江戸の軽粉とまったく同じ物質が、二百年後にまだ同じ害を出しているということになる。
お歯黒に近い習俗も、東南アジアの一部に見られた。ベトナムや周辺地域には歯を黒く染める慣行があり、成人や既婚の標識として機能した例が知られる。こちらも近代化のなかで急速に衰退した。身体に施す記号は、社会の仕組みが変わると真っ先に失われるという点で、共通の経過をたどっている。
報広告と評判 — 指南書と役者絵が流行を作った
化粧の情報はどう伝わったか。三つの経路があった。
一つめは指南書である。文化10年(1813)に刊行された『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』は、佐山半七丸の著、速水春暁斎の画とされる化粧の手引書で、白粉の塗り方、顔の欠点をどう補うか、髪の手入れ、身だしなみ全般を具体的に説いた。版を重ねて長く読まれたロングセラーであり、化粧が個人の勘ではなく「学べる技術」として流通していたことを示す。江戸期にはこの種の女性向け実用書・往来物が数多く刊行されており、読み書きの普及(寺子屋)がその土台にあった。
二つめは錦絵である。美人画と役者絵は、そのまま流行の伝達装置だった。どういう髪型が今風か、唇はどう差すのか、襟をどこまで抜くのか——錦絵を見れば分かる。とくに人気役者や名の知れた女性の装いは強い影響力を持ち、髪型や着物の柄に名前が付いて流行することもあった。紙に刷られた図像が、量産される最初のファッション情報だったと言っていい。
三つめは店そのものである。白粉屋、紅屋、小間物屋、髪油を扱う店。看板と暖簾を掲げ、引札を配り、店の名を刷り込んだ紙で商品を包む。有名店の紅は、それ自体が贈答品になった。
そして最後に効くのは、やはり評判である。あの店の白粉は伸びが良い、あの紅は色が冴える、あの髪結は結い上がりが崩れない。湯屋の二階や井戸端で交わされる評価が、店の売れ行きを決めた。広告が伝えたのは流行で、評判が決めたのは信用だった。
出典・確度
- 佐山半七丸『都風俗化粧伝』(文化10年〈1813〉刊、速水春暁斎画)— 江戸後期の代表的な化粧指南書。国立国会図書館デジタルコレクションで原本公開 ★★★ [S: 一次史料]
- 喜田川守貞『守貞謾稿』— 江戸・大坂の風俗、髪型、化粧、小間物に関する記述。国立国会図書館デジタルコレクションで原本公開 ★★★ [S: 一次史料]
- 白粉の主流が鉛白(塩基性炭酸鉛)を主成分とする鉛白粉であり、水銀を原料とする軽粉も用いられたこと — 化粧史・化学史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 鉛白粉が鉛中毒を引き起こすこと、および水銀化合物が有毒であること — 医学的事実。鉛は皮膚・吸入経路で体内に入り蓄積し、貧血・神経障害等を生じ、授乳を通じて乳児に及ぶ危険もある。明治期には「白粉毒」として社会問題化した ★★★ [A: 医学的事実]
- 無鉛白粉の開発・普及が明治末から大正期にかけて進み、鉛白粉の法的規制がさらに後になったこと — 近代化粧品史の定説。具体的な年次と規制の内容は制度史の確認を要する ★★ [B: 二次資料]
- 紅が紅花から製せられ、最上(山形周辺)が主要産地で、京都で加工されたこと — 近世の商品作物・流通の定説 ★★★ [A: 定説]
- 良質の紅を厚く塗って乾かすと玉虫色の金属光沢を呈し、これが上質の証とされたこと — 紅の製品特性として広く知られ、現在も再現される ★★★ [A: 定説]
- 「紅一匁、金一匁」という言い回し — 紅の高価さを示す慣用表現。実際の交換比率を示す記録として扱うことはできない ★★ [B: 慣用表現・誇張の可能性]
- 文化・文政期に流行したとされる笹紅(笹色紅)と、下地に墨を用いたとされる技法 — 化粧史・風俗史で言及されるが、下地の具体的な方法については諸説がある ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- お歯黒の材料(鉄漿水と五倍子粉)と、鉄とタンニンの反応による発色 — 定説。国立歴史民俗博物館など民俗・生活文化の研究で扱われる ★★★ [A: 定説]
- お歯黒が既婚(または婚約)の標識、引眉が出産後の標識とされたこと — 目安としては広く行われる説明だが、開始時期・対象は地域・階層・時期により差が大きく、全国一律の規則ではない ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 公家男性のお歯黒が近世にも続いたこと — 有職故実に関する定説 ★★★ [A: 定説]
- お歯黒に虫歯抑制の効果があったとする指摘 — 出土人骨の調査に基づく議論があるが、効果の程度については評価が分かれる ★★ [B: 解釈・諸説あり]
- 女髪結が幕府の取り締まりの対象となったこと — 奢侈統制に関連する触れとして知られる。年次と対象範囲は史料により異なる ★★ [B: 二次資料]
- 享保・寛政・天保の改革における奢侈禁止令と、身分に応じた衣服規制 — 幕政史の定説。国立公文書館に幕府の法令関係の記録が所蔵される ★★★ [A: 定説]
- 明治3年(1870)の鉄漿・引眉に関する布告、および明治6年(1873)に皇后がお歯黒・引眉をやめたとされること — 近代化の象徴的な事例として広く紹介される。ただし布告の性格(禁止か許可か)の理解には幅があり、地方では明治後期以降まで習慣が残った ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- ヨーロッパにおける鉛白ベースの白粉(Venetian ceruse)と、その健康被害 — 西洋化粧史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 水銀を含む美白クリームによる健康被害に関する世界保健機関(WHO)の警告 — 国際機関による現行の公的警告 ★★★ [A: 公的機関]
- ベトナムなど東南アジアの一部における歯を黒く染める習俗 — 民族誌で報告される。日本のお歯黒との直接的な系統関係を断定することはできない ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
- 「江戸の女性は皆お歯黒をしていた」とする一般的なイメージ — 実際には年齢・婚姻状況・階層・地域によって施す範囲が大きく異なった。本記事では記号としての機能に絞って記述した ★ [通説への留保]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。