旅 — みち

富士講と富士塚 — 登れない人のために、町に富士を築いた山へ人を送る仕組みと、山を町へ連れてくる仕組み

晴れた日の江戸からは、西の空に富士山が見えた。その山へ、白い装束の町人たちが列をつくって登っていった。旅費は一人で出したのではない。町内や仕事の仲間で講をつくり、月々わずかずつ積み立て、選ばれた代表が皆の分まで山に登る。だが講の全員が登れたわけではない。年寄り、幼い子ども、そして山の上へ登ることを許されなかった女性たちがいた。そこで江戸の人々は、富士山の溶岩を運んできて、町の中に小さな富士を築いた。富士塚である。この塚に登れば、本物の富士に登ったのと同じご利益があるとされた。講という器の広がりはまじないと信心、伊勢講と御師の旅はお伊勢参りの記事で見た。ここでは富士講に絞り、山へ人を送り出す仕組みと、山を町へ連れてくる仕組みの両方を追う。

北斎「諸人登山」。富士の頂に近い赤茶けた岩場を、白い衣に黄色い丸笠の登山者たちが杖をつき、はしごを使って登っていく。右上の岩室には休む人々が身を寄せ合って詰まっている
葛飾北斎『冨嶽三十六景』「諸人登山」(天保2〜5年〈1831〜34〉ごろ)。メトロポリタン美術館蔵。頂に近い赤茶けた岩場を、白い衣に黄色い丸笠、青い脚絆の人々が長い杖をつき、身をかがめてよじ登っていく。一人ははしごに取りつき、足元には雲が流れる。右上の岩室には、身を寄せ合って休む人々がぎっしり詰まっている。富士の姿そのものは描かれず、描かれているのは登る人々である。『冨嶽三十六景』のなかで、富士を外から描かなかったただ一つの図とされる(確度★★)。白装束の一行は富士講の登拝者とみられる(確度★★)。画像: Wikimedia Commons(CC0)

組しくみ① 講の仕組み — 積み立て、くじ、先達

富士講は、富士山を拝み、登ることを目的にした講である。同じ町内、同じ職の仲間、同じ長屋の住人などが集まって一つの講をつくった(確度★★)。講をまとめるのが講元、山での作法や祈りを導くのが先達で、先達は何度も登った経験のある者がつとめた(確度★★)。講には「丸〇講」「山〇講」のような名と、丸や山形を組み合わせた印があり、装束や旗に染め抜いた(確度★★)。

月に一度ほど、講の仲間が誰かの家に集まって拝みを行う。身禄らの名や富士の神を記した掛け軸(御身抜)を掛け、祈りの言葉を唱え、線香を井桁に組んで焚き上げる(確度★★)。その場で掛け金を集めて帳面につける。信心と寄り合いと積み立てが一つの席で済む。この器のかたちは、頼母子講などの講の金融と同じである。

夏の山開きが近づくと、積み立てた金でその年に登る者を決める。全員分の旅費がたまるには年数がかかるので、くじや順番で選ばれた代表が皆の分まで登る代参がよく行われた(確度★★)。代参者は仲間から預かった願いを山へ運び、お札や山の印を持ち帰る。登れなかった者も、講として登ったことになる。

目安の計算: 仮に講の仲間二十人が月に五十文ずつ出せば、一年で一万二千文になる。1文≒25円の目安で換えると、およそ30万円である。江戸から北麓の吉田までは歩いて片道三、四日ほどとされ(確度★)、往復の宿代、御師への礼、山中での諸費用を払えば、一人分でもかなりの額になる。一人ではためらう額でも、二十人で割れば月々の小遣いで届く。数字は仮のもので、掛け金も人数も講ごとに違った。

組しくみ② 角行と身禄 — 山の信仰を町の暮らしへ

富士講の祖とされるのが長谷川角行である。戦国の末に生まれ、富士山麓の人穴と呼ばれる溶岩のほら穴にこもって修行し、富士の神から教えを受けたと伝えられる(確度★)。江戸で病がはやったとき、角行の書いた護符で人々を救ったという話も残るが、伝承の域を出ない(確度★)。百歳を超えて正保3年(1646)に没したともいうが、年も年齢も伝承として扱う(確度★)。

角行の流れを、江戸の町人の信仰に変えたのが食行身禄(俗名は伊藤伊兵衛)である。伊勢の生まれで、江戸に出て油などを商ったとされる(確度★★)。身禄は享保18年(1733)、富士山の七合五勺にある烏帽子岩で断食に入り、そのまま世を去った。これを入定という(確度★★★)。断食の間に語った教えは、付き従った田辺十郎右衛門が書き留め、『三十一日の御巻』として伝わる(確度★★)。

身禄が説いたのは、山にこもる修行ではなく、日々の家業に正直に励み、人に慈悲をもって暮らすことだった(確度★★)。身分や男女で人の値打ちは変わらないという趣旨の言葉も伝わる(確度★★)。難しい行をしなくても、町で働く暮らしそのものが信心になる。この教えは、職人や商人の多い江戸でよく受け入れられた。富士吉田の浅間神社を私財で修めた村上光清と並べて、「大名光清、乞食身禄」と言われたとも伝えられる(確度★)。身禄の死後、弟子たちが講を広げ、富士講は18世紀後半から江戸で大きく伸びた(確度★★)。

組しくみ③ 御師おんしの町と白い行衣

江戸の富士講がめざしたのは、主に北麓の吉田口だった。五街道の一つ甲州道中を西へ歩き、小仏の関所を越え、大月から富士吉田へ向かう(確度★★)。

吉田の町には御師おんしの家が並んでいた。御師は講ごとに決まった得意先を持ち、登ってくる講の仲間を自分の家の宿坊に泊め、祈祷をし、山の案内を手配した(確度★★★)。ふだんは江戸の講を回ってお札を配り、つながりを保った(確度★★)。伊勢の御師と同じ形の商いであり、上吉田の通りには最盛期に八十軒を超える御師の家があったとされる(確度★★)。

山に入る者は白い行衣を着た。白は清めの色で、死装束にも通じ、山に入っていったん死に、生まれ変わって戻るという意味がこめられたと説明される(確度★★)。手には金剛杖、腰には鈴。登りながら「六根清浄」と唱える。目・耳・鼻・舌・身・意の六つを清める、という意味である(確度★★★)。山の社や山小屋で押してもらう印を行衣に重ねていき、何度も登った者の行衣は印で埋まった(確度★★)。

登れる季節は、旧暦6月1日の山開きからおよそ二か月に限られた(確度★★)。冒頭の北斎の絵に描かれているのも、白い衣で岩場に取りつき、岩室で身を寄せ合って休む人々である。

組しくみ④ 富士塚 — 登れない人のための富士

最初の富士塚とされるのが、安永8年(1779)に築かれた高田富士である(確度★★)。築いたのは身禄の弟子で植木職人の高田藤四郎で、場所は戸塚村の水稲荷神社の境内、いまの早稲田のあたりだった(確度★★)。植木職の腕で土を盛り、富士山から運んだ黒い溶岩を山肌に貼りつけたと伝えられる(確度★★)。

富士塚は、本物の富士を縮めて写したつくりになっている。ふもとから頂へ折れ曲がる道をつけ、一合目から十合目までを示す石を置く。山中の名所である小御岳や烏帽子岩、身禄の像、溶岩のほら穴(胎内)を写した塚もある(確度★★)。頂には浅間神社の奥宮にあたる祠をまつる。この塚に登れば、富士山に登ったのと同じご利益があるとされた(確度★★)。

誰のための山だったのか。長い旅に耐えられない年寄り、幼い子ども、旅費や暇のない者、そして富士の上へ登ることを許されなかった女性である(確度★★)。高さは数メートルから十メートルほどのものが多く(確度★)、子どもの足でも登れる。山開きの日には塚の前に縁日が立ち、町内の老若男女が登った(確度★★)。花見と同じく、季節の行楽の顔も持っていたのである。

高田富士のあと、富士塚は江戸とその周りの村々に次々と築かれた。講ができると、自分たちの塚を持つことが目標の一つになった。明治以降に築かれたものまで含めると、東京とその周辺に数百あったとみる数え方もある(確度★)。数は数え方で大きく変わるので、目安にとどめる。

組しくみ⑤ 女人禁制と、そのなかの女たち

江戸時代の富士山には女人禁制が敷かれていた。女性が登れるのは中腹の決められた場所までで、吉田口では二合目のあたりがその境とされる(確度★★)。富士山に限らず、多くの霊山に共通する当時の制度だった(女の一生も参照)。

例外もあった。富士山が庚申の年に姿を現したという言い伝えから、六十年に一度めぐる庚申の年は「縁年」とされ、ふだんより多くの人が登った(確度★★)。この年には女性が登れる範囲が広げられたと伝えられ、万延元年(1860)の庚申の年には大勢の女性が登ったとされる(確度★★)。

そして天保3年(1832)、高山たつという女性が山頂まで登ったと記録されている(確度★★)。身禄の流れをくむ不二道の小谷三志らに伴われ、男の身なりをして登ったと伝えられる(確度★★)。記録に残るなかで、富士の頂に立った最初の女性とされる。不二道は身禄の教えを受け継ぎ、男女の別なく人の務めを説いた一派である(確度★★)。

女性は講の外にいたわけではない。講の一員として掛け金を出し、月々の拝みに加わり、山開きには富士塚に登った(確度★★)。山の上では締め出されても、町の富士には女性も子どもも同じように登れた。富士塚はその意味で、制度の隙間を埋める場所でもあった。富士山の女人禁制が解かれたのは、明治5年(1872)の太政官布告による(確度★★★)。

組しくみ⑥ 江戸八百八講と、繰り返された禁令きんれい

富士講の広がりは「江戸八百八講」と言い表された。「八百八町」にかけた言い回しで、八百八の講が実際にあったという数ではない(確度★★)。講の数を数えた当時の統計は無く、誇張を含んだ言葉として受け取るのがよい。それでも、そう言われるほど講が町に満ちていたことは確かである。

幕府はこの広がりを警戒した。身分を越えて人が集まり、白装束で町を練り歩き、祈祷で病を治すとうたう。18世紀後半から幕末にかけて、幕府は富士講を名指しして、講を立てること、人を集めること、祈祷や護符を配ることを禁じる触れを何度も出した(確度★★)。嘉永2年(1849)の触れは、その代表としてよく挙げられる(確度★★)。同じ禁令きんれいが繰り返されたこと自体が、守られなかったことを物語っている。講は呼び名や集まり方を変えながら、町の中で続いていった(確度★)。

今江戸と今 — 世界遺産になった「信仰の山」と、町に残る富士

富士山は2013年、ユネスコの世界文化遺産に「富士山—信仰の対象と芸術の源泉」として登録された(確度★★★)。名のとおり、評価の中心は山の自然ではなく、人が山を拝み、描いてきた歴史にある。構成資産には山頂の信仰遺跡や浅間神社のほか、角行が修行したと伝わる人穴富士講遺跡、吉田口登山道、上吉田の御師住宅二軒(旧外川家住宅・小佐野家住宅)が含まれる(確度★★★)。江戸の講が泊まった御師の家が、そのまま世界遺産の一部になっている。

富士塚も都内に多く残る。渋谷区の鳩森八幡神社にある千駄ヶ谷富士は寛政元年(1789)に築かれたとされ、都内に残る最古級の富士塚として東京都の文化財に指定されている(確度★★)。品川神社の品川富士は明治2年(1869)に築かれた塚で、第一京浜沿いの境内に高くそびえる(確度★★)。江古田の富士塚(練馬区)や下谷坂本の富士塚(台東区)は、国の重要有形民俗文化財になっている(確度★★)。高田富士は、昭和38年(1963)ごろ神社とともに近くへ移された(確度★★)。ふだんは閉じられ、山開きの日だけ登れる塚も多い。

講も消えてはいない。数はずっと減ったが、いまも白い行衣で吉田口から登り、御師の家に泊まる講がある(確度★★)。北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の「吉田の火祭り」は、夏の山じまいの祭りとして毎年続いている(確度★★)。

史同じころ、世界では — 聖地へ行けないなら、聖地を写す

ヨーロッパにも、遠い聖地へ向かう巡礼と、それを支える仲間の組織があった。スペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラは使徒ヤコブの墓があるとされる聖地で、中世には各地から巡礼者が歩いた(確度★★★)。巡礼者はホタテの貝を身につけ、行った証とした(確度★★★)。各地には聖ヤコブの名を冠した信心しんじん会がつくられ、会員が金を出し合って巡礼者の宿や病人の世話を担った(確度★★)。自分で行けない者が代わりの人を送る代理の巡礼も行われた(確度★★)。積み立てと代参という富士講の骨組みと、よく似ている。

さらに近いのが、行けない人のために聖地を写す試みである。北イタリアのアルプスのふもとには、15世紀末から17世紀にかけて、キリストの生涯や受難の場面を丘の上の礼拝堂の連なりに写した「サクロ・モンテ(聖なる山)」がいくつも築かれた(確度★★)。遠いエルサレムへ行けない人々が、近くの山を登りながら聖地をたどる。これらは2003年に世界遺産になっている(確度★★★)。教会の壁に受難の場面を十四並べ、順にたどって祈る「十字架の道行」も、18世紀には広く教会に置かれるようになった(確度★★)。山へ行けないなら山を写し、聖地へ行けないなら聖地を写す。富士塚と同じ発想が、同じころの東西にあった。

亜アジアのいま — 登る山、巡る山、組んで参る山

中国山東省の泰山は、古くは皇帝が天地を祀る儀式を行った山で、いまも多くの人が長い石段を登る。1987年に世界遺産になった(確度★★★)。頂近くには女神・碧霞元君をまつる祠があり、子授けや家内安全を願う人々の信仰を集めてきた(確度★★)。北京の西にある妙峰山も碧霞元君の山で、清の時代には町の人々が「香会」と呼ばれる組をつくり、旗を立てて参詣した(確度★★)。香会は近年、祭りの行事とともに再び活動している(確度★)。組んで参り、旗を掲げるところは、富士講とよく重なる。

チベットのカイラス山は、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教・ボン教がそろって聖なる山とあがめる(確度★★)。巡礼者は頂へは登らず、山のまわりを一周五十キロあまり歩いて巡る(確度★★)。登らないことが信仰になる山もあれば、富士のように登ることが信仰になる山もある。山を拝む形は一つではない。

報広告と評判 — 北斎の富士、講の旗、御師おんしの刷り物

『冨嶽三十六景』は天保2年(1831)ごろから版元の西村屋与八によって売り出され、評判を呼んで、のちに十図が足されて四十六図になった(確度★★★)。富士をさまざまな場所から眺める揃い物が売れた背景に、江戸の富士講の広がりをみる研究者は多い(確度★★)。富士を拝む人々がいたから、富士の絵を欲しがる人々もいた。そのなかで「諸人登山」だけは、富士の形を見せず、登る人々の息づかいを描いた。拝む者の目から見た富士である。

歌川広重も富士を描き続けた。『名所江戸百景』(安政3〜5年〈1856〜58〉)には、目黒にあった二つの富士塚を描いた「目黒元不二」と「目黒新富士」が入っている(確度★★★)。富士塚そのものが、江戸の名所として錦絵にしきえになったのである。広重の没後には『富士三十六景』も出た(確度★★)。錦絵の作られ方は錦絵の記事に詳しい。

講の側にも、評判をつくる仕掛けがあった。講の印を大きく染めた旗を立てて町から出立し、白装束の列は道中の人目を引いた(確度★★)。吉田の御師の家の前には、泊まっている講の名を書いたまねきが掲げられ、どの講がどの御師の得意先かが一目で分かった(確度★★)。御師が江戸の得意先に配ったお札や、登山の道筋を描いた刷り物の絵図も残る(確度★★)。北斎の売り物の絵と、講の旗と、御師おんしの刷り物。江戸の富士は、拝まれる山であると同時に、見せ、売り、語られる山でもあった。

出典・確度 16件 最終確認 2026年10月23日 ひらく
  1. 富士講の組織(講元・先達・講名と印)、拝み(御身抜・焚き上げ)、代参、富士塚のつくりと広がり、禁令の繰り返し — 岩科小一郎『富士講の歴史 — 江戸庶民の山岳信仰』(名著出版) ★★ [A: 学術書]
  2. 富士信仰と富士講の展開、御師と講の関係 — 平野榮次『富士信仰と富士講』(岩田書院) ★★ [A: 学術書]
  3. 食行身禄の生涯と教え、ミロクの世の思想 — 宮田登『ミロク信仰の研究』(未來社) ★★ [A: 学術書]
  4. 『三十一日の御巻』(身禄の入定中の口述を田辺十郎右衛門が筆録したもの) — 写本・翻刻による ★★ [S: 一次史料・伝写本]
  5. 長谷川角行の生没・人穴での修行・護符の話 — 富士講の縁起・伝記類にもとづく伝承。年や年齢は確定できない ★ [C: 伝承]
  6. 吉田口登山道、上吉田の御師町と御師住宅(旧外川家住宅・小佐野家住宅)、御師の数、まねき、吉田の火祭り — 富士吉田市・山梨県の解説。御師の軒数は時期と数え方で変わる ★★ [A: 公的機関]
  7. 人穴富士講遺跡、村山口・大宮口側の信仰遺跡 — 静岡県の世界遺産の解説 ★★★ [A: 公的機関]
  8. 世界文化遺産「富士山—信仰の対象と芸術の源泉」(2013年登録)と構成資産、サクロ・モンテ(2003年登録)、泰山(1987年登録) — ユネスコ世界遺産センター、文化庁 ★★★ [A: 公的機関]
  9. 江古田の富士塚・下谷坂本の富士塚(国の重要有形民俗文化財)、千駄ヶ谷富士(東京都の文化財)、品川富士、高田富士とその移設 — 文化遺産オンライン、渋谷区・品川区・新宿区の解説。築造年は「とされる」の範囲 ★★ [A: 公的機関・築造年は諸説]
  10. 女人禁制の境、庚申の縁年と女性の登拝、高山たつの登頂(天保3年・1832)と不二道の小谷三志 — 富士講・不二道の研究と、川口市(小谷三志ゆかりの鳩ヶ谷)の解説。男装の細部は伝承を含む ★★ [B: 二次資料]
  11. 明治5年(1872)の太政官布告による社寺の女人結界の廃止 — 『法令全書』。国立国会図書館で見られる ★★★ [S: 一次史料]
  12. 葛飾北斎『冨嶽三十六景』(西村屋与八版・天保2〜5年ごろ・四十六図)と「諸人登山」 — 所蔵はメトロポリタン美術館。「富士を外から描かない唯一の図」という位置づけは研究者の整理による ★★ [S: 一次史料(作品)・位置づけはB]
  13. 歌川広重『名所江戸百景』の「目黒元不二」「目黒新富士」、『富士三十六景』 — 国立国会図書館などの所蔵作品 ★★★ [S: 一次史料(作品)]
  14. サンティアゴ巡礼と信心会・代理の巡礼、十字架の道行の広まり、妙峰山の香会、カイラス山の巡礼 — ヨーロッパ・アジアの宗教史と民俗学の概説。香会の現状は変わりうる ★★ [B: 二次資料]
  15. 1文≒25円(蕎麦基準の目安) — 日本銀行金融研究所貨幣博物館 ★★ [A: 公的資料・換算は目安]
  16. 「目安の計算」の掛け金と人数、江戸八百八講を誇張とみる扱い、東西の「写された聖地」の比較 — 個々の事実は上記出典によるが、仮の数字と論の運びは本サイトによる再構成である ★ [F: 再構成]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年10月23日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20261023 0727