江戸に生きた一人の町人を想像してほしい。彼は寺請の制度によってどこかの寺の檀家であり、住む町の氏神の氏子でもある。正月には恵方を気にし、子が疱瘡にかかれば赤い張り子を枕元に置き、地震のあとには鯰の絵を買って貼り、医者にも薬にもかかる。ここには矛盾はない。宗派を選ぶという発想も、信じるものを一つに絞るという発想も、そもそも前提になかったからである。江戸の信心を理解する第一歩は、「何を信じていたか」ではなく「何をどう併用していたか」を見ることにある。
組しくみ — 重なり合う所属
まず制度の側から見る。幕府はキリシタンの禁圧を目的に寺請制度を設け、すべての家がいずれかの寺に属してキリシタンでないことを証明させた。宗門改の帳面は戸籍に近い機能を持ち、人別帳と結びついて人の把握に使われた。つまり寺の檀家であることは、信仰の表明である前に、身分証明だった。
一方、住む土地には氏神があり、そこの氏子として祭礼に加わり、費用も負担する。町の祭は町の行事であり、参加は地縁の義務でもあった。檀家であることと氏子であることは、当時の人にとって並び立つ話ではなく、そもそも別の層に属する話である。前者は幕府の制度、後者は土地の共同体。信仰の対象が違うのではなく、所属の種類が違った。
その土台にあったのが神仏習合である。中世以来、神と仏は別々の体系ではなく、一つの体系の別々の現れとして理解されてきた。仏が姿を変えて日本の神として現れたとする本地垂迹の考え方が広く共有され、神社に別当寺が付属し、僧が神前で経を読み、神像と仏像が同じ境内に並んだ。江戸時代の人にとって、これが宗教の標準的な風景である。神社と寺を区別して考えること自体が、明治以降に強制された整理だった。
個人の信心を支えたのが講だった。講とは、同じ目的を持つ人々が集まって金や労力を出し合う集まりで、宗教的なものも経済的なものもある。代表的なものを挙げる。
- 伊勢講 — 伊勢神宮への参詣のために積み立て、くじなどで選ばれた者が代参する。全員が行けなくても、講として参ったことになる。
- 富士講 — 富士山を信仰の対象とし、登拝を目指す。江戸とその周辺に多数の講が結成され、各地に富士塚(ミニチュアの富士)が築かれた。登れない者はここに登る。
- 庚申講 — 干支の庚申の夜、体内の虫が抜け出て天に告げ口をするのを防ぐため、眠らずに夜を明かす庚申待を行う。実際には夜通しの飲食と歓談の場でもあった。
- 念仏講・日待・月待 — 念仏を唱える集まり、日の出や特定の月齢を待って集まる行事。
- 頼母子講・無尽 — 金銭を積み立てて順に融通する。信仰の講と同じ「講」の器を使った、相互金融の仕組みである。
講の妙味は、信心と社交と金融が同じ器に収まっていた点にある。月に一度集まり、飲み食いし、積立を確認し、次の代参を決める。宗教活動として見れば信仰の実践だが、共同体の維持装置として見れば、定期的な会合と相互扶助の仕組みそのものである。
組しくみ② 病と災いに、何をぶつけたか
まじないがもっとも濃く現れるのは、病と災いの場面である。
疱瘡——天然痘は、江戸時代を通じて子どもの命を奪い続けた病だった。予防も治療も確立していない。人々はこれを疱瘡神という来訪する神格として捉え、追い払うのではなく丁重に扱って早く帰ってもらうという作法をとった。病児の枕元には赤一色で刷った疱瘡絵(赤絵)が置かれ、赤い達磨、赤い木菟(みみずく)、赤い猿の張り子といった玩具が飾られる。赤が疱瘡神に関わる色とされたためだが、その由来については諸説ある。絵柄には、強者の象徴である鎮西八郎為朝や、金太郎、鍾馗などが選ばれた。
麻疹も繰り返し流行し、とりわけ文久2年〈1862〉の大流行の際には麻疹絵が大量に出版された。麻疹絵には、食べてよい物といけない物、慎むべき行いが書き込まれているものがある。これは護符であると同時に、生活上の注意書きだった。信心と実用が同じ一枚に同居している。
地震への反応が鯰絵である。安政2年〈1855〉の江戸地震のあと、地の底の大鯰が動いて地が揺れるという古くからの俗信を題材に、おびただしい数の錦絵が短期間に出回った。鹿島の神が要石で鯰を押さえる図、鯰が人々に詫びる図、鯰が復興景気で潤う職人に感謝される図まである。祈りであり、風刺であり、そして商品だった。無許可の出版が多く、幕府の取り締まりの対象にもなったとされる。
日常の水準では、厄年、方角の吉凶を避ける方違え、日の吉凶を記した暦、家の普請や旅立ちの日取り、そして各種のお守りと護符がある。門口に貼る札、身につける守り袋、井戸や竈に祀る神。医者にかかることと、加持祈祷を頼むことと、まじないをすることは、すべて同じ棚に並んでいた。
今江戸と今 — 「迷信だから遅れている」を採らない理由
ここで、この記事の姿勢をはっきりさせておきたい。江戸のまじないを「科学以前の迷信」として片づける見方を、本記事は採らない。理由は道徳的な配慮ではなく、そう見ると事実が説明できなくなるからである。
ある対処が効いたかどうかを確かめるには、比べる相手がいる。同じ条件の集団を二つ用意し、片方だけに施し、結果の差を見る——対照実験である。この考え方が医学に本格的に持ち込まれるのは十九世紀以降、統計的な検証手法が整うのは二十世紀に入ってからだ。江戸の人々は、効果を測る道具そのものを持っていなかった。
その条件下で、疱瘡にかかった子を前にして取りうる行動を考えてみる。医者を呼ぶ、薬を飲ませる、加持祈祷を頼む、赤絵を置く、神社に願をかける。どれが効くかを事前に判別する方法がない。ならば費用が許すかぎり全部やるのが、期待値の上で最も合理的な選択になる。実際、当時の人々はそうした。医者と祈祷は競合しない。
- 費用が安い — 赤絵一枚、護符一枚の値は知れている。効かなくても失うものは小さい。
- 害が小さい — 少なくとも赤い張り子を置くことで容態が悪化することはない。
- やることがある、という効果 — 手の施しようがない状況で、家族が何かを続けられること自体に意味がある。
現代でも構造は変わっていない。合格祈願の絵馬を書く受験生は、勉強をやめてはいない。安産祈願に行く人が産科に行かないわけでもない。私たちも、検証できない領域には併用で臨んでいる。江戸の人と違うのは、検証できる領域が広がったこと、そしてその境界がどこにあるかを判別できるようになったことだけである。
史同じころ、世界では — 護符も祈祷も、どこにでもあった
同時代のヨーロッパでも、疫病への対処は信仰と分かちがたく結びついていた。ペストの流行時には聖セバスティアヌスや聖ロクスといった聖人への祈願が行われ、聖遺物や護符が用いられた。天体の配置に病因を求める説も長く生き延びている。「まじないをする社会」と「しない社会」が並んでいたのではなく、まじないをする社会しかなかったと言うほうが正確である。
天然痘への具体的な対抗手段が現れるのはこの時期にあたる。人痘接種は十八世紀のうちにヨーロッパに伝わり、1796年にはエドワード・ジェンナーが牛痘を用いた種痘を試みたとされる。日本にも十九世紀半ばに種痘が伝わり、嘉永2年〈1849〉に牛痘苗がもたらされて以降、各地に種痘所が設けられていく。ここで初めて、疱瘡絵と並ぶ第三の選択肢が現れたことになる。それでも赤絵はすぐには消えなかった。新しい手段が加わっても、古い手段が同時に使われ続けるのが実際の姿である。
災害の解釈についても、興味深い並行がある。1755年のリスボン地震は、ヨーロッパで「なぜ善良な人々が災厄に遭うのか」という激しい議論を呼び起こし、ヴォルテールらの思想的な応答を生んだ。安政の江戸地震のあとに鯰絵が出回ったのも、災いに説明を与えようとする営みという点では同じ地平にある。違いは、答えを神学に求めるか、絵と笑いに変えるかにあった。
亜アジアのいま — 重層のまま生きている
複数の宗教的伝統を同時に用いる形は、東アジアに広く見られる。中国では仏教・道教・民間信仰・祖先祭祀が重なり合い、台湾の廟には複数系統の神格が並ぶ。朝鮮半島でも儒教の祭祀と仏教と巫俗が併存してきた。「一人一宗教」を前提とするのは、一神教の枠組みを普遍と見なす読み方であって、地域の実態ではない。
現代日本も同様である。正月に神社へ初詣に行き、葬儀は仏式で営み、結婚式は教会で挙げる。葬送の場面で仏教が担う役割は江戸の寺請制度に由来する部分が大きく、初詣の習慣は近代の鉄道と参詣が結びついて広がった面がある。いまの重層は江戸そのままではないが、江戸の重層の上に積み上がっている。
講の系譜も残っている。伊勢講・富士講の直系はごく少数になったが、地域の祭を支える氏子組織、頼母子講の系譜を引く相互扶助の仕組み、山岳信仰にもとづく講は各地に続いている。文化庁が把握する無形の民俗文化財のなかにも、講の行事は数多く含まれている。信心の器としてより、地域をつなぐ器として生き延びたものが多い。
報広告と評判 — 流行神と、売れるお守り
江戸の信心には、はっきりと市場があった。流行神(はやりがみ)という言葉がそれをよく表している。ある社や仏が「霊験あらたか」と評判になると人が押し寄せ、参道に店が並び、門前が賑わう。数年で熱が冷めると、また別の神が流行る。信心が流行として立ち上がり、流行として終わるのである。
この循環を回していたのが、情報と商品だった。霊験の話は瓦版や噂で広がり、錦絵が名所と神仏を売り、参詣土産が持ち帰られる。旅としての参詣——伊勢参りや大山詣で——は、信仰であると同時に、当時の人が長距離を移動できるほとんど唯一の正当な口実でもあった。関所を越える理由として、参詣は強かった(関所の項も参照)。
疱瘡絵も麻疹絵も鯰絵も、版元が刷って売った商品である。売れると見込んだから刷った。安政の地震のあとに鯰絵が短期間で大量に出たのは、需要が爆発したからにほかならない。祈りの絵が、災害直後のもっとも売れる出版物になった——この事実は、信心を軽く見る材料ではなく、信心がどれほど生活に密着していたかを示す材料として読むべきだと思う。
最後に、失われたものについて。神仏分離と廃仏毀釈で多くの仏像・仏具・記録が破却され、講の多くは近代化と都市化のなかで解散した。疱瘡絵は種痘の普及とともに役目を終え、鯰絵は災害報道が別の形をとるようになって消えた。まじないが消えたというより、まじないが担っていた役割を、別のものが引き受けた。不安に形を与え、やるべきことを与え、人を集める。その機能は、いまも別の名前でどこかにある。
出典・確度
- 国立歴史民俗博物館— 民間信仰、講、疫病と民俗、鯰絵に関する展示・所蔵資料および研究成果を参照した ★★★ [S: 一次資料所蔵機関]
- 国立国会図書館デジタルコレクション— 疱瘡絵・麻疹絵・鯰絵を含む近世出版物および民俗関係の刊本を参照した ★★★ [S: 一次資料所蔵機関]
- 東京都立図書館— 江戸の社寺・参詣・流行神、災害と出版に関する解説および所蔵資料 ★★★ [A: 公的機関]
- 文化庁— 無形の民俗文化財(講の行事、祭礼、民間信仰)に関する制度・一覧を参照した ★★★ [A: 公的機関]
- 国立公文書館— 寺請・宗門改および明治初期の神仏分離関係の布告に関する所蔵資料 ★★★ [A: 公的機関]
- 寺請制度と宗門改が身分証明の機能を持ったこと、氏子としての地縁的所属と併存したこと — 定説。ただし運用の実態は地域・時期で差が大きい ★★★ [A: 定説]
- 神仏習合と本地垂迹が近世の標準的な宗教理解だったこと — 定説。ただし地域・宗派によって濃淡があり、一様ではない ★★★ [A: 定説]
- 慶応4年/明治元年〈1868〉以降の神仏分離令と廃仏毀釈 — 定説。ただし布告は複数回にわたり、廃仏毀釈の激しさは地域差が非常に大きい。全国一律の現象ではない ★★★ [A: 定説・地域差大]
- 伊勢講の代参、富士講と富士塚、庚申講・庚申待、念仏講、日待・月待、頼母子講 — 民俗学・近世史の定説。講の数や分布を示す網羅的な統計は当時のものとしては存在せず、本記事では具体的な数を挙げていない ★★★ [A: 定説・数値は不可]
- 疱瘡神と疱瘡絵(赤絵)、赤い張り子の玩具、鎮西八郎為朝ら強者の図像が用いられたこと — 定説。赤が用いられた理由については諸説あり、確定していない ★★ [B: 事実は定説・由来は諸説]
- 文久2年〈1862〉の麻疹大流行と麻疹絵の大量出版 — 定説。出版点数の正確な集計は困難で、本記事では点数を示していない ★★★ [A: 定説・数値は不可]
- 安政2年〈1855〉の安政江戸地震と、直後に大量に出回った鯰絵。要石と鹿島の神の図像。無許可出版が取り締まりの対象になったとされること — 地震と鯰絵の存在は定説。取り締まりの範囲と厳しさ、出回った種類数については史料により差があり、諸説ある ★★ [B: 定説・細部に諸説]
- 厄年・方違え・暦の吉凶・護符など日常のまじない、医療と祈祷の併用 — 定説 ★★★ [A: 定説]
- ジェンナーによる牛痘接種の試み(1796)、および嘉永2年〈1849〉に牛痘苗が日本にもたらされ各地に種痘所が設けられたこと — 定説。普及の速度と地域差については研究に幅がある ★★★ [A: 定説]
- 1755年リスボン地震がヨーロッパの思想的議論を呼んだこと、ペスト流行時の聖人祈願 — 西洋史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 流行神(はやりがみ)の周期的な盛衰、参詣が旅の正当な理由となったこと — 研究で広く指摘される。個々の流行の年次・規模は史料により差がある ★★ [B: 傾向は定説・個別は幅あり]
- 対照実験・統計的検証の手法が近代以降に確立したという医学史の経過 — 定説。本記事における「併用が合理だった」という評価は本記事の解釈であり、史料の記述ではない ★★ [B: 前提は定説・解釈は本記事の見解]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。