食 — たべる

菓子と甘味砂糖が高価だった国の、甘さの作り方

江戸の菓子を考えるとき、最初に押さえるべきは砂糖が高かったという一点である。この時代の甘さは、砂糖が潤沢にある前提では設計されていない。水飴、甘葛(あまづら)、そして素材そのものの甘み——限られた甘味資源をどう配分するかが、菓子の姿を決めていた。

しくみ — 甘さは、どこから来たか

砂糖は近世を通じて長く輸入品だった。中国船やオランダ船が長崎にもたらす砂糖は貴重な交易品であり、価格も高い。したがって江戸前期の菓子で砂糖をふんだんに使えたのは、公家・武家の上層と、寺社や茶の湯の場に納める上等な菓子に限られていた。

庶民の甘さを支えたのは、まず水飴である。米や麦の澱粉を麦芽で糖化して作る水飴は、原料が国内で調達でき、砂糖より安い。飴売りは町を巡り、子どもに売った。もう一つが甘葛——ツタ類の樹液を煮詰めた古代以来の甘味料だが、近世には後退していったとされる。そして干柿のように、乾燥によって糖分を凝縮した果実が甘味の役を担った。

「菓子」はもともと果物だった: 「菓」の字が示すとおり、古くは果実と木の実を指す語である。加工した甘味を菓子と呼ぶようになったのは後のことで、いまも果物を「水菓子」と呼ぶ言い方にその名残がある(確度★★★)。

状況を変えたのが砂糖の国産化である。八代将軍徳川吉宗は輸入品への支払いで銀が流出することを問題視し、薬草や作物の国産化を進める殖産政策を採った。その一環としてサトウキビの栽培も奨励されたとされる。さらに18世紀後半、讃岐(現在の香川県)で和三盆に至る精製法が確立され、阿波(徳島)とあわせて国内産の白砂糖が供給されるようになる。薩摩藩は琉球・奄美での黒糖生産を藩の財源として厳しく統制した。甘さは、藩の財政と直結する商品作物だった

砂糖が国内で採れるようになると、菓子は一気に大衆化する。とはいえ格差は残った。上菓子は京や江戸の上等な菓子屋が作る精製された砂糖と練り餡の菓子で、贈答や茶席に用いる高級品。対して駄菓子は黒砂糖や水飴を使い、雑穀を混ぜた安い菓子で、子どもや長屋の日常の口に入った。「駄」は劣るという意味である。同じ「菓子」という語の中に、はっきりした階層の断層があった

町の甘味としては、ほかに汁粉屋、心太(ところてん)、甘酒売りがある。甘酒は米麹の発酵による甘味で、砂糖を使わない。夏の飲み物として棒手振りが売り歩いた——現代の感覚では冬の飲み物だが、江戸では夏の栄養補給の飲料であり、俳諧では夏の季語として扱われる。

『江戸名所百人美女 上野山下』。茶と菓子を前にした女性
『江戸名所百人美女 上野山下』。甘味は行楽と結びついていた。花見にも月見にも、その季節の菓子が必ず添えられた。菓子を食べることは、暦を体で確かめる行為でもあった。画像: Wikimedia Commons(CC0)

江戸と今 — 甘さの基準が動いた

いま和菓子を「甘い」と感じる人は多い。だがその甘さは、砂糖が貴重だった時代に設計された配分の名残である。餡の甘さを強くするのは保存性を高めるためでもあり、当時の食生活の中では、甘味は日常的に得られない栄養と快楽だった。現代の私たちは砂糖を含む食品に囲まれているので、同じ菓子が過剰に甘く感じられる。菓子が変わったというより、こちらの基準が動いた

制度としての変化も大きい。江戸の菓子には季節と行事が強く結びついていた。桜餅は花見と、柏餅は端午と、月見団子は仲秋と対応していた。菓子を食べることが暦を体で確認する行為だったのである。いまも和菓子屋は季節の菓子を出すが、それを季節の確認として食べる人は減った。菓子の側ではなく、暦との関係のほうが薄れている。

一方で、しっかり残ったものもある。土産に菓子折を持参する慣習、店ごとの銘菓という考え方、そして菓子の名前に和歌や景色を託す命名法。これらは近世の贈答文化と茶の湯の作法から連続している。

同じころ、世界では — 砂糖という世界商品

日本が砂糖の国産化に苦心していた同じ頃、大西洋では砂糖が世界史を動かす商品になっていた。カリブ海と南米のプランテーションで、アフリカから強制的に連れて来られた人々の労働によって砂糖が量産され、ヨーロッパへ運ばれる。コーヒー・紅茶・チョコレートに砂糖を入れる習慣が広まり、需要が需要を呼んだ。砂糖の甘さは、奴隷制と不可分の産物だった——この事実を省いて18世紀の砂糖は語れない。

日本はこの構造の外にいた。オランダ船が長崎に運んだ砂糖の一部は東南アジア産であり、日本の砂糖消費が国際的な生産体制と無関係だったわけではない。ただし規模は比較にならず、日本は砂糖を大量に得られなかったからこそ、砂糖に頼らない甘味の技術を保ったという見方もできる(確度★★)。水飴、麹の甘み、素材の甘みを重ねる和菓子の技法は、制約が生んだ設計である。

なお、砂糖が高価だった状況はヨーロッパでも中世まで同様で、砂糖は薬種として扱われていた。甘味が薬から嗜好品へ移るという転換は、時期をずらして各地で起きている

アジアのいま — 屋台の甘さ

タイやベトナムの街で売られる甘味は、いまもその場で作って、その場で食べるものが多い。椰子砂糖で甘みをつけた菓子、蒸したもち米に豆や芋を合わせたもの、氷と甘いシロップ。日持ちを前提にしない、屋台と路地の甘味である。

江戸の汁粉屋、心太売り、甘酒売りも同じ性格を持っていた。買って持ち帰るのではなく、その場で食べる甘味が町の日常にあり、贈答用の上等な菓子とは別の系統として存在していた。この二層構造——街頭の甘味と、箱に入れて贈る菓子——が並存している点で、いまの東南アジアの都市と江戸の町はよく似ている。

広告と評判 — 銘菓という発明

菓子は、江戸の商いの中でも名前で売る度合いが特に高い商品だった。同じ材料で作られていても、店の名と菓子の銘によって価値が変わる。だから菓子屋は屋号を大切にし、暖簾を看板とし、包み紙に意匠を凝らした。中身より先に、包みと名が評価を運ぶという構造は、この商品分野で早くから成立している。

宣伝の回路もあった。引札で新しい菓子を知らせ、番付に載れば店頭に掲げる。街道の宿場では土産菓子が名物として売られ、旅人が持ち帰ることで名が遠方へ広がった。移動する人間が、そのまま広告になったのである。

そして贈答。菓子折を持参する慣習は、菓子を「食べ物」から関係を確認する道具へ変えた。中元・歳暮の贈答が定着すると、菓子屋は季節ごとの需要という安定した収入を得る。いまのデパ地下の菓子売り場に至る商売の骨格は、この時代に組み上がっている。

出典・確度

  1. 砂糖が近世を通じて長く輸入品であり、長崎貿易の主要な輸入品目だったこと — 貿易史の定説 ★★★ [A: 定説]
  2. 徳川吉宗による殖産政策と国産化の奨励 — 国立公文書館ほか公的機関の解説で扱われる定説。ただしサトウキビ奨励の具体的な施策内容と効果の程度には史料上の幅がある ★★ [B: 定説だが細部に幅]
  3. 讃岐・阿波における和三盆に至る製糖法の確立(18世紀後半とされる) — 地域史・産業史の定説だが、確立の年代と経緯には諸説がある ★★ [B: 諸説あり]
  4. 薩摩藩による奄美・琉球の黒糖の統制と藩財政への寄与 — 藩政史の定説。収奪の実態と数量の評価については研究上の議論がある ★★ [B: 定説だが評価に議論]
  5. 水飴(麦芽による澱粉の糖化)が庶民の甘味を支えたこと — 食物史の定説 ★★★ [A: 定説]
  6. 甘葛が古代以来の甘味料であり近世には後退したとされること — 通説だが、後退の時期と程度は史料が限られる ★★ [B: 通説]
  7. 上菓子と駄菓子の区分 — 近世の菓子業に関する記述で広く扱われる。ただし両者の境界は時期・地域で一定しない ★★ [B: 二次資料]
  8. 甘酒が夏の飲料として売られ、俳諧で夏の季語とされること — 歳時記および風俗記述で確認できる ★★★ [A: 定説]
  9. 喜田川守貞『守貞謾稿』— 菓子屋・飴売り・甘酒売りなど江戸の食と生業の記述。国立国会図書館デジタルコレクションで原本公開 ★★★ [S: 一次史料]
  10. 大西洋のプランテーションと奴隷労働による砂糖生産、およびヨーロッパにおける砂糖消費の拡大 — 世界史の定説 ★★★ [A: 定説]
  11. 「砂糖が乏しかったからこそ砂糖に頼らない技法が保たれた」という説明 — 因果として断定はできず、本サイトによる解釈を含む ★★ [F: 解釈]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。訂正の方針は編集方針、確定事実の一覧は資料庫を参照。

版 20260827 0207