17世紀のヨーロッパで、白く薄く、叩けば澄んだ音のする磁器は、王侯が競って集める宝物だった。その多くは中国の景徳鎮で焼かれ、オランダ東インド会社の船で運ばれていた。ところが17世紀半ば、中国で明が倒れて清が興る混乱のなかで、その流れが途絶える。空いた穴を埋めたのが、肥前の有田で焼かれた磁器だった。出島のオランダ人が買い付けた器は、バタヴィアを経てヨーロッパへ渡り、積み出しの港の名をとって「IMARI(伊万里)」と呼ばれるようになる。ただし、その技の始まりには、海の向こうから戦争で連れて来られた人々がいた。この記事は、そこから話を始める。
組しくみ① 戦争が運んできた技 — 連れて来られた陶工たち
まず、薄めずに置いておくべき事実がある。天正20年/文禄元年(1592)から慶長3年(1598)まで、豊臣秀吉は二度にわたって朝鮮へ大軍を送った(文禄・慶長の役)。戦場となった朝鮮半島では多くの人が命を落とし、田畑や町が荒れ、数万人規模ともいわれる人々が捕虜として日本へ連れ去られた(被虜人。人数の推計には研究によって大きな幅がある、確度★★)。その経緯と、のちに捕虜を取り戻すために来た使節のことは朝鮮通信使の記事に詳しい。
連れ去られた人々のなかに、焼き物の職人がいた。九州や中国地方の大名は、朝鮮の陶工を自分の領地に住まわせ、窯を開かせた。唐津・薩摩・萩・高取など、西日本の焼き物の産地の多くが、この時期に朝鮮から来た陶工の手で始まったか、大きく姿を変えたとされる(確度★★)。この戦争が「やきもの戦争」と呼ばれることがあるのは、そのためである。ただ、その呼び名は、技を奪われた側の痛みを見えにくくもする。当時の朝鮮には白い磁器を焼く確かな技術があり、日本にはまだそれがなかった。連れて来られた人々は、故郷に帰る道を絶たれたまま、他国の大名のために窯を焚いたのである。捕虜のなかには、長崎などでポルトガル商人に売られ、海外へ運ばれた人もいたことが知られている(確度★★)。
のちに朝鮮からの使節が日本へ来て、捕虜の送還を求めた。帰国できた人もいたが、すでに日本で家族を持ち、仕事を得て残った人、帰る機会そのものに恵まれなかった人も多かった(確度★★)。有田の磁器の物語は、こうした人々の暮らしの上に始まっている。
組しくみ② 泉山の白い石と、佐賀藩の管理
有田は肥前国の山あいにあり、佐賀藩(鍋島家)の領地だった。この地で日本で初めて本格的に磁器が焼かれたのは1610年代とされる(確度★★★)。発掘された窯の跡からも、そのころに磁器づくりが始まったことが確かめられている。
その始まりについては、朝鮮から来た陶工李参平(日本名 金ヶ江三兵衛)が、有田の泉山で磁器の原料となる白い石(陶石)を見つけ、元和2年(1616)に磁器を焼いた、という話が伝えられている(確度★★、伝承)。この話は金ヶ江家に伝わる記録などに基づくもので、李参平は有田の陶山神社に祀られ、「陶祖」と呼ばれている。ただし、磁器づくりは一人の手柄ではなく、朝鮮から来た多くの陶工と、もともと土地にいた職人たちが重ねた試みの積み重ねだったとみるのが、いまの研究の大勢である(確度★★)。泉山の石切り場の跡は国の史跡として残る。
磁器が売れるとわかると、藩は窯場を手元に置こうとした。寛永14年(1637)、佐賀藩は有田と伊万里の窯場を整理し、日本人の陶工を中心に八百人あまりを窯場から立ち退かせたと、藩の記録は伝える(確度★★)。燃料の薪をとる山を守るため、また技術を確かな者に限るためとみられている。17世紀半ばまでに、藩は有田に皿山代官を置き、窯の数や職人の出入りを管理した(確度★★)。器に色をつける上絵付けの店は「赤絵町」に集められ、軒数を限られたとされる(確度★★)。さらに藩は、将軍家や大名への献上品を焼く窯(鍋島藩窯)を延宝3年(1675)ごろ伊万里の大川内山に移し、技術が外に漏れないよう厳しく守ったとされる(確度★★)。職人にとって、窯場は稼ぎの場であると同時に、藩の囲いの中でもあった。
有田の器は、山を越えて北の伊万里の港へ運ばれ、そこから船で各地へ積み出された。伊万里の商人が売りさばいたので、国内では産地の有田ではなく、港の名で「伊万里焼」と呼ばれた(確度★★★)。海の道で器を全国に届ける商いは、問屋と仲買や北前船の記事で見た流通の網の上にあった。一方、海外向けの品は長崎へ送られ、オランダ人や中国の商人に引き渡された(確度★★)。
組しくみ③ 中国の穴 — 明から清への交替と、出島の大口注文
17世紀前半、オランダ東インド会社が扱う磁器の主役は中国の景徳鎮の品だった。ところが正保元年(1644)に明の都が落ち、清が中国を治め始めると、南の沿岸では明の側に立つ鄭成功らが抵抗を続けた。清は彼らを封じ込めるため、明暦2年(1656)ごろから海に出ることを禁じ、寛文元年(1661)には沿岸の住民を内陸へ移す遷界令を出した(確度★★★)。戦乱は景徳鎮の窯にも及び、中国の磁器はヨーロッパの市場へほとんど届かなくなった(確度★★)。同じ明から清への交替が、清の冊封を受けた琉球の行く末も揺らしたことは、その記事で見たとおりである。
代わりの仕入れ先を探したオランダ東インド会社が目をつけたのが、出島から近い有田だった。慶安3年(1650)ごろにはためしに少量が積み出され、万治2年(1659)には、数万点にのぼる大口の注文が出されたとされる(確度★★)。器は長崎で船に積まれ、会社のアジアの本拠であるバタヴィア(現在のジャカルタ)へ運ばれ、そこからヨーロッパのほか、インドや西アジアなど各地の商館にも送られた(確度★★)。
どれほどの量が海を渡ったのか。オランダ東インド会社の公式の記録に残る分だけで、百万点を超えるとする推計がある(確度★★、数え方で大きく変わる)。これに商館員が私的に持ち出した分(脇荷)や、中国の商人が唐船で東南アジアへ運んだ分が加わる。輸出は、オランダ人だけの商いではなかった(確度★★)。
組しくみ④ 柿右衛門様式と金襴手 — 欧州の好みに合わせて
はじめのころの輸出品は、冒頭の大皿のような、白地に青で描く染付が中心だった。縁を区切って文様を並べる構成は、それまでヨーロッパで親しまれた中国の輸出磁器に倣ったものとされる(確度★★)。中国の品が来ないなら、中国の品に似た器を、というのが最初の注文の考え方だった。
やがて有田は、自分たちの色を持ちはじめる。1640年代には、焼き上げた器に赤・緑・黄などの絵の具で描く色絵が始まったとされる(確度★★)。初代の酒井田柿右衛門がこれに成功したという話が伝わるが、伝承の色が濃い(確度★)。1670年代ごろからは、乳白色の地(濁手)に余白を広くとり、赤を効かせて草花や鳥を軽やかに描く柿右衛門様式が生まれ、ヨーロッパの王侯に好まれた(確度★★)。
元禄年間(1690年代)ごろからは、染付の青に赤と金をたっぷり重ね、器の面をびっしり埋める金襴手が増える(確度★★)。華やかで、大きな部屋に並べても負けない。ヨーロッパの宮殿では、壺や大皿を壁一面や暖炉の上に飾る「磁器の間」がつくられ、こうした器が好んで使われた(確度★★)。
組しくみ⑤ 景徳鎮の復活と、国内の食卓へ
有田の輸出の盛りは長く続かなかった。清が国内を固め、貞享元年(1684)に海に出る禁を解くと(展海令)、景徳鎮の磁器が再び大量に輸出されるようになる(確度★★★)。中国の品は安く、量も多い。景徳鎮は日本の金襴手をまねた器まで焼いて、ヨーロッパに送り出した(確度★★)。穴を埋めた有田は、穴がふさがると押し出された。オランダ東インド会社による有田の磁器の公式の買い付けは18世紀に入って細り、宝暦7年(1757)ごろで途絶えたとされる(確度★★)。
そのかわり、肥前の窯は国内の市場へ力を移した。18世紀には、有田やその周辺の窯で焼かれた手ごろな磁器の碗や皿が、町人や村の暮らしにまで広く行きわたる(確度★★)。それまで漆器や陶器が中心だった庶民の食卓に、白い磁器が並ぶようになったのは、この流れの結果である。宮殿を飾った器と、長屋の飯碗は、同じ土地から出ていた。
今江戸と今 — 焼き物の町と、海の向こうの所蔵品
有田はいまも磁器の町である。平成28年(2016)には「有田焼創業400年」として、元和2年の伝承を起点にした記念の行事が開かれた(確度★★★)。昭和52年(1977)には「伊万里・有田焼」が国の伝統的工芸品に指定されている(確度★★)。毎年4月29日から5月5日にかけて開かれる有田陶器市には、例年百万人規模の人が訪れるとされる(確度★★、主催者の発表による)。町には佐賀県立九州陶磁文化館があり、江戸時代に海を渡った器が里帰りして並ぶ(確度★★)。
一方で、産地の売り上げは平成の初めごろをさかいに大きく減ったとされ、職人の跡継ぎや窯の存続が課題になっている(確度★★)。需要の波に産地が揺さぶられるのは、景徳鎮の復活で輸出を失った江戸のころと変わらない。
江戸時代の有田の器は、いまや世界の美術館に収まっている。ドレスデン国立美術館群の磁器コレクションは、18世紀にザクセンの君主が集めた日本と中国の磁器を多く伝えている(確度★★★)。大英博物館やアムステルダム国立美術館、そして冒頭の大皿を持つアメリカのピーボディ・エセックス博物館にも、オランダ東インド会社の時代の伊万里が収められている(確度★★)。有田の窯の跡から出た破片と、遠い国の宮殿に伝わった完全な器を突き合わせて、どの窯でいつ焼かれたかを調べる研究も進んでいる(確度★★)。
史同じころ、世界では — 「白い金」とマイセンの誕生
17〜18世紀のヨーロッパでは、磁器は自分たちでは作れない東方の宝であり、「白い金」と呼ばれるほど値の張る品だった(確度★★)。なかでも熱を上げたのが、ザクセン選帝侯でポーランド王も兼ねたアウグスト強王(1670〜1733)である。日本と中国の磁器を数万点集めたとも言われ(確度★★)、享保2年(1717)には磁器を飾るための宮殿(のちの「日本宮」)を手に入れた(確度★★)。同じ年、プロイセン王が持つ中国の大きな壺と、自分の兵士の一隊を引き換えたという話も伝わる(確度★★)。王自身、磁器への執着を「病」と書き残したとされる(確度★)。
買うだけでは飽き足らず、王は自国で磁器を焼かせようとした。金を作ると称していた錬金術師ベトガーを事実上閉じ込めて研究させ、学者チルンハウスらとともに白い磁器の焼成にたどり着く。宝永7年(1710)、ドレスデンに近いマイセンの城に王立の磁器工場が開かれた(確度★★★)。製法は厳しく秘密にされ、職人の移動も縛られた(確度★★)。技を囲い込もうとしたのは、鍋島の藩窯も、ザクセンの王も同じだった。マイセンは早い時期から柿右衛門様式や伊万里の意匠を写した器を作っている(確度★★★)。
マイセンの秘密はやがて漏れ、ウィーン、フランスのセーヴル、イギリス各地にも磁器の工場が生まれた。それ以前から、オランダのデルフトでは中国や日本の染付をまねた陶器が大量に焼かれていた(確度★★★)。18世紀後半のイギリスでは、ウェッジウッドが器づくりを工場の分業に組み替え(確度★★★)、焼き物は産業革命の一角を担っていく。東アジアの器を追いかけたヨーロッパは、やがて大量に作って売る側に回ったのである。
亜アジアのいま — 景徳鎮と京畿道の窯場
有田を押し出した景徳鎮は、いまも「磁器の都」と呼ばれる。陶磁を専門に学ぶ大学や数多くの工房が集まり、明・清の宮廷向けの器を焼いた官窯(御窯廠)の跡は、遺跡として整備されている(確度★★)。若い作家が集まる焼き物の町としても知られるようになった(確度★★)。
朝鮮半島では、朝鮮王朝の宮廷の器を焼く官窯が、ソウルの南東の京畿道広州に置かれていた(確度★★)。現在、その近くの利川・驪州・広州の一帯は韓国を代表する陶磁器の産地で、毎年焼き物の祭りが開かれる。利川は2010年に、ユネスコの創造都市の網(工芸と民芸の分野)に加わった(確度★★)。また、李参平の故郷と伝えられる忠清道の公州には、有田の人々の手で記念の碑が建てられたとされる(確度★)。戦争で断ち切られた技のつながりを、いまは両側の町が記憶し直そうとしている。
報広告と評判 — 器に描かれた注文主と、「IMARI」という名
冒頭の大皿の真ん中にある「VOC」の印は、オランダ語の会社の名(東インド会社)の頭文字を組み合わせたものである。会社の船の旗や大砲、建物にも同じ印が使われた(確度★★★)。器の上の印は、その品が会社の注文品であることを示す、いわば看板だった。オランダの家の紋章を入れた皿、薬の名をラテン語で書き入れた薬瓶、ひげを剃るときに使う切り欠きのある皿、ビールを飲むための取っ手つきの器など、日本の暮らしにはない形も、注文に応じて焼かれた(確度★★)。有田の職人は、読めない文字や見たことのない道具を、見本どおりに描き、形にしたのである。
ヨーロッパでは、こうした日本の色絵の磁器、とくに青・赤・金を重ねた器が、積み出しの港の名で「IMARI」と呼ばれるようになった(確度★★)。名前はやがて産地を離れ、中国でまねて焼いた器も、イギリスの窯が写した器も、似た配色なら「イマリ」と呼ばれた(確度★★)。港の名が、産地の名を越えて一つの「様式」の名になったのである。日本では、江戸時代の有田の器をいま「古伊万里」と呼ぶことが多い。
評判は、幕府の外交の最後の時期にも生きていた。慶応3年(1867)のパリ万国博覧会には、佐賀藩が有田の磁器を出品している(確度★★★)。かつてオランダ人の手を経て渡った器は、今度は藩の名で、自らヨーロッパの目の前に並んだ。華やかな「IMARI」の名の陰に、連れて来られた陶工たちと、囲いの中で筆を執った職人たちがいたことも、あわせて覚えておきたい。
出典・確度 14件 最終確認 2026年10月23日 ひらく
- 文禄・慶長の役(1592〜98)と被虜人の連行、捕虜の売買、送還の経緯 — 内藤雋輔『文禄・慶長役における被擄人の研究』(東京大学出版会)ほか。連行者数の推計は研究により幅がある ★★ [A: 学術書・人数は諸説]
- 西日本の焼き物の産地と朝鮮から来た陶工、「やきもの戦争」の呼び名 — 近世陶磁史の概説 ★★ [B: 二次資料]
- 有田での磁器の創始(1610年代)、李参平と泉山の伝承(元和2年・1616)、陶山神社、泉山磁石場跡、有田焼創業400年(2016) — 有田町の解説、佐賀県立九州陶磁文化館の展示・解説。李参平の事績は伝承を含む ★★ [A: 公的資料・創始者の話は伝承]
- 寛永14年(1637)の窯場の整理と陶工の退去、皿山代官、赤絵町、鍋島藩窯の大川内山への移転 — 『有田町史』(有田町)。藩の記録(『山本神右衛門重澄年譜』)に基づく記述を含む ★★ [A: 自治体史・年と数は記録による]
- 「伊万里焼」の呼び名と伊万里の港・伊万里商人、輸出品の長崎への送り出し — 佐賀県・有田町の解説、近世陶磁史の定説 ★★★ [A: 公的資料・定説]
- オランダ東インド会社による肥前磁器の輸出(1650年ごろの試し積み、1659年の大口注文、輸出量の推計、1757年ごろの終わり)、木の見本による注文、唐船による輸出 — T. Volker『Porcelain and the Dutch East India Company』(1954年)、大橋康二『海を渡った陶磁器』(吉川弘文館) ★★ [A: 学術書・数量は推計]
- 明清交替(1644)、清の海禁と遷界令(1661)、展海令(1684)、景徳鎮の輸出の途絶と再開、「チャイニーズ・イマリ」 — 東アジア史・陶磁史の定説 ★★★ [A: 定説・景徳鎮の細部は★★]
- 色絵の始まり(1640年代)と初代柿右衛門の伝承、柿右衛門様式・濁手・金襴手の時期と特徴 — 佐賀県立九州陶磁文化館の解説、近世陶磁史の概説。柿右衛門の事績は伝承を含む ★★ [B: 二次資料・伝承を含む]
- アウグスト強王の磁器収集と日本宮(1717)、兵と壺の交換の話、ベトガーとマイセンの王立磁器工場(1710)、マイセンの柿右衛門写し — ドレスデン国立美術館群の解説、ヨーロッパ陶磁史の定説。交換と「病」の話は語り伝えを含む ★★ [A: 公的資料・逸話は★]
- 「白い金」の呼び名、デルフト陶器、セーヴルなど各国の磁器工場、ウェッジウッドの工場生産 — ヨーロッパ陶磁史・経済史の概説 ★★ [B: 二次資料]
- 伊万里・有田焼の伝統的工芸品指定(1977)、有田陶器市の会期と来場者数、産地の売り上げの推移 — 経済産業省の指定、主催者の発表と報道。来場者数は主催者の発表 ★★ [A: 公的資料・数は発表値]
- 海外の美術館の所蔵(大英博物館・アムステルダム国立美術館・ピーボディ・エセックス博物館)、冒頭の大皿 — 各館の公開情報、Wikimedia Commons の画像の記載 ★★ [A: 所蔵館の資料]
- 景徳鎮の現在、朝鮮王朝の官窯(京畿道広州)、利川のユネスコ創造都市への加盟(2010)、公州の記念碑 — ユネスコの公開情報と報道。公州の碑は確かめきれていない ★ [B: 現代資料・碑は★]
- 「中国の穴を埋めた」という見立てと、鍋島藩窯とマイセンの囲い込みの比較 — 個々の事実は上記出典によるが、論の運びは本サイトによる再構成である ★ [F: 再構成]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年10月23日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。