寺請制度のもとで誰もが檀那寺に葬られたことと、費用をどう分担したかは連作の第一回「寺請制度と葬いの段取り」で見た。だが葬式が終わっても、支払いは終わらない。この回で見るのは、遺体をどう処理したか(火葬か土葬か)、墓石を持てたのは誰で持てなかったのは誰か、そして死者と定期的に会う年中行事という、葬式のその先である。金額や比率はいずれも時期・地域・史料によって大きく振れることを先に断っておく。
組しくみ① 火葬と土葬 — 都市が選んだ方法
江戸時代の葬法は、火葬と土葬が併存していた。どちらを採るかは、宗派・地域・家の慣習・そして土地の余裕によって分かれる。大づかみに言えば、人口が密集した都市部では火葬が広く行われ、土地に余裕のある村では土葬が主流だったとされる(確度★★)。江戸では周縁部に焼場が置かれ、小塚原(こづかっぱら)や桐ヶ谷などの名が知られる。宗派の傾向も影響し、浄土真宗は火葬を採ることが多かった。
一方で、火葬には根強い反対もあった。儒教の立場からは遺体を焼くことが不孝とされ、神道からも忌避された。水戸藩では火葬が禁じられたことが知られており、藩によって扱いが異なった(確度★★)。この対立は江戸時代のうちに決着せず、明治に持ち越される。そして決着の付き方が興味深い。明治6年(1873)、政府は太政官布告で火葬を禁止した。ところが都市部では埋葬地が足りず実務が回らない。わずか二年後の明治8年(1875)、この禁止は撤回された(確度★★★)。理念で禁じたものを、都市の物理的な制約が押し戻したのである。
組しくみ② 墓石を持てた層と、持てなかった層
葬られることと、墓石を持つことは、まったく別の話である。近世墓標の研究では、石造の墓標が庶民層に広がるのは17世紀後半から18世紀にかけてであることが指摘されている(確度★★)。それ以前は木製の卒塔婆や土を盛った塚が中心で、時が経てば地表から消える。墓の形も時代とともに変わり、はじめは個人ごとの墓、やがて夫婦を並べる墓、そして「○○家之墓」という家単位の墓へ移る。ただし家墓が全国的な主流になるのは明治以降で、江戸時代を通じて当たり前だったわけではない(確度★★)。
では、墓石を持てなかったのは誰か。裏長屋の日雇い層——石塔を建てる費用が出ず、共同の墓地に埋められ木の卒塔婆が朽ちれば場所もわからなくなる。無宿・行き倒れ——引き取り手がおらず、人別の外にいる者は死んでも帰る家がない。刑死者——小塚原や鈴ヶ森の刑場周辺に葬られた。荒川区南千住の小塚原回向院は刑死者や行き倒れを葬った寺として知られ、杉田玄白らが腑分けを見学した刑場でもある。解剖という近代医学の出発点が、引き取り手のない遺体の上に立っているという事実からも目を逸らすべきではない(確度★★★)。
こうした死者を受け入れたのが投込寺と呼ばれた寺である。三ノ輪の浄閑寺がその代表として知られ、境内には新吉原総霊塔が立つ。安政2年(1855)の安政江戸地震の際に多数の遊女が葬られたことからこの名がついたと伝わる(確度★★、寺伝・地域資料による)。吉原の遊女の弔いは慎重に書く必要がある。「投込み」という語が示すのは、簡素で、しばしば個の名を伴わない葬りである。年季奉公の途中で病没した遊女の埋葬料は楼主の負担とされたが費用は最小限に抑えられ、遺族が引き取らない例も多かった。妓楼や馴染みの客が供養を営んだ例も語られるが、それを強調して「情のある世界だった」という物語に落とし込むのは誤りである。前借金で拘束された年季奉公という基本構造の上で、死んだ後の扱いもまた不均等だった——それが浄閑寺の総霊塔が意味していることだ。
組しくみ③ 死んだ後も続く付き合い — 盆と彼岸
弔いは葬式で終わらない。江戸の暮らしには、死者と定期的に会う日が組み込まれていた。盂蘭盆会(うらぼんえ)——盆である。旧暦7月13日から16日にかけて、迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、精霊棚(しょうりょうだな)を設けて供物を供え、送り火で送る。斎藤月岑の『東都歳事記』(天保9年〈1838〉刊)は、江戸の年中行事として盆の諸行事を記録している(確度★★★)。寺で営まれる施餓鬼会(せがきえ)は無縁の霊を含めて供養する法要で、誰にも弔われない死者を制度の側から拾い上げる仕組みでもあった。
彼岸は、春分・秋分の中日をはさむ七日間。この期間に墓参りをする習慣は江戸時代にはすでに定着していた。そしてこの時刻表は、奉公人の生活とも噛み合っていた。藪入り——正月16日と7月16日、住み込みの奉公人が実家に帰ることを許された日である。7月の藪入りは盆の直後にあたり、帰省と墓参りが同じ機会に重なった(確度★★)。付け加えておくと、盆や彼岸の墓参りは、しばしば花見と同じく行楽と一体だった。寺の境内には店が並び縁日が立つ。江戸の宗教行事は、悲しみだけでできてはいない。
今江戸と今 — 檀家がほどけ、無縁が戻ってきた
寺請制度は明治初年に法的な根拠を失う。それでも「家の宗派」「家の菩提寺」という関係は、慣習として長く残った。だが二つの変化が、その慣性を弱めつつある。第一に移動。江戸の檀家関係はその場所に住み続けることを前提にしていた。都市への人口移動が進むと、菩提寺は遠く、墓参りは年に一度の帰省行事になり、やがて途切れる。第二に継承者の不在。「○○家之墓」という形式は家が続くことを前提にした設計である。子がいない、子が遠方にいる、あるいは維持費を負担できない——結果として引き継ぎ手のない墓が増え、墓じまい、永代供養墓、納骨堂、樹木葬、散骨といった選択肢が広がっている。
ここで気づくのは、「無縁」という江戸の問題が、まったく別の経路で戻ってきていることだ。江戸の無縁仏は、扶助の網に属していない者の死だった。現代の無縁墓は、家という単位が続かなくなった結果である。原因は正反対に近いのに、行き着く場所は似ている。江戸が施餓鬼会や投込寺で受け止めたものを、いま何が受け止めるのか——これは制度設計の問題として、まだ答えが出ていない。
史同じころ、世界では — 教会墓地が溢れた
ヨーロッパでは長く教会に付属する墓地(churchyard)に埋葬するのが原則だった。ところが都市の人口が急増すると、この方式が破綻する。19世紀前半のロンドンでは教会墓地の過密と衛生問題が深刻化し、都市の外側に大規模な公共墓地を設ける方向へ転換した。1830年代以降に開かれたケンサル・グリーンやハイゲートなどの民営墓地群(後に「Magnificent Seven」と総称される)がその代表で、1852年以降の埋葬法(Burial Acts)が市内墓地の閉鎖と郊外墓地への移行を制度化した(確度★★★)。パリはさらに劇的だ。18世紀末、市内の墓地から膨大な遺骨を採石場跡へ移し、これがカタコンブになった。1804年にはペール・ラシェーズ墓地が市の外縁に開かれる。宗教が管理していた埋葬を、都市行政が引き取っていく——これが近代ヨーロッパの弔いの大きな流れである。
江戸と比べると、共通点と相違点がはっきりする。共通点は、百万都市が土地の限界に突き当たったこと。相違点は解き方で、ヨーロッパは郊外へ広げる方向を選び、江戸は焼いて容積を減らす方向を選んだ。明治政府が火葬を禁じようとして二年で撤回したのは、日本が後者の解を手放せなかったからである。弔いの様式の違いは、しばしば思想の違いではなく、都市の物理の違いだった。
亜アジアのいま — 火葬率と、継げない墓
現在の日本の火葬率は99%を超え、世界でもきわめて高い水準にある(厚生労働省の衛生行政報告等による。確度★★★)。江戸の都市が採っていた方法が、近代の制度整備を経て全国の標準になった、と見ることができる。韓国は20世紀後半まで土葬が中心だったが、墓地不足と国土の制約を背景に急速に火葬へ転じ、現在は非常に高い比率に達している(統計の年次と定義により数値に幅があるため具体的な数字は挙げない・確度★★)。中国でも都市部を中心に火葬が推進されてきた。どの社会も、同じ制約——土地の有限性——に同じ方向で応じている。
祖先を定期的に訪ねる時刻表は、東アジアに広く共有されている。中国・台湾の清明節、韓国の秋夕(チュソク)、日本の盆と彼岸。日付も由来も違うが、「決まった日に一斉に墓へ行き、その日は交通が混雑する」という現象まで含めて似ているのは興味深い。そして墓を継ぐ人がいないという課題も共通する。少子化と都市集中が進む地域では家単位で墓を維持する前提そのものが崩れ、納骨堂、共同墓、樹木葬といった選択が広がっている。江戸の投込寺と施餓鬼会が果たしていた「引き取り手のいない死をどこかで受け止める」という機能を、現代のどの制度が担うのかという問いは、アジアの都市が共通して抱えているものである。
報広告と評判 — 墓を持てなかった人は、行方が分からない
戒名の格と法要の規模が生きている家の格を示す表示だったことは前回で見た。だがその表示は、それを出せる層にしか残らないという一方的なものでもある。石の墓に刻まれた戒名と没年は、二百年後の今も読める。だが刻む石を持てなかった側の記録は、そもそも生まれない。
裏長屋で死んだ日雇い、引き取り手のない無宿、投込寺に運ばれた遊女——彼らの多くは、寺の過去帳に短く記された以外、どこにも痕跡を残さなかった。過去帳自体が失われたり、個人を特定できる情報が乏しかったりすることも多い。木の卒塔婆は朽ちて消え、共同の墓地は誰が埋まっているかを示さない。つまり、この回の冒頭で見た「石の墓を持てた層」は史料の上で存在し続けるのに対し、「持てなかった層」は統計上いなかったことに近づいていく。
浄閑寺の新吉原総霊塔や、小塚原回向院の存在は、この空白に対する数少ない例外である。個人の名は残らなくても、「ここに、名を持たない死者たちがいた」という事実だけは、供養塔という形で辛うじて記録された。個人が特定できないという弱さと、少なくとも痕跡は残ったという強さを、この塔は同時に抱えている。誰の墓が残り、誰の墓が残らなかったかという線引きそのものが、生前の身分と貧富をそのまま反映している——これが、江戸の弔いをめぐってもっとも直視すべき非対称である。
出典・確度 14件 最終確認 2026年8月27日 ひらく
- 都市部で火葬、村落部で土葬が主流だったとされる傾向、および江戸周縁の焼場(小塚原・桐ヶ谷など) — 葬送史・民俗学で述べられるが、比率を示す同時代の統計は存在せず傾向としての記述にとどまる ★★ [B: 二次資料・傾向のみ]
- 儒教・神道の立場からの火葬忌避、および水戸藩における火葬禁止 — 近世思想史・藩政史で扱われる。藩による扱いの差は大きい ★★ [B: 二次資料]
- 明治6年(1873)の火葬禁止と明治8年(1875)の撤回 — 太政官布告による。近代の葬送制度史で定説として扱われ、法令原本は国立公文書館に所蔵される ★★★ [A: 定説・一次史料あり]
- 石造墓標が庶民層に普及するのが17世紀後半〜18世紀とされること、個人墓→夫婦墓→家墓という形式の変化、家墓の全国的普及が明治以降であること — 近世墓標の考古学・民俗学的研究による。国立歴史民俗博物館ほかで扱われるが、地域による時期差が大きい ★★ [B: 二次資料・地域差大]
- 小塚原回向院(荒川区南千住)が刑死者・行き倒れを葬った寺であること、および小塚原の刑場が『解体新書』に至る腑分け見学の場であったこと — 定説。本サイト蘭学と同じ根拠 ★★★ [A: 定説]
- 浄閑寺(三ノ輪)が「投込寺」と呼ばれ新吉原総霊塔が立つこと、安政江戸地震(安政2年・1855)を機にこの名がついたと伝わること — 寺伝・地域資料による。本サイト吉原と同じ根拠 ★★ [B: 寺伝・地域資料]
- 遊女の埋葬が簡素で遺族が引き取らない例が多かったとされること、および妓楼・馴染み客による供養の例 — 通説・逸話として語られるものを含み、個別事例の裏づけの強さに差がある。美談としてのみ語ることは避けるべき論点 ★★ [C: 通説・逸話を含む]
- 盂蘭盆会(迎え火・精霊棚・送り火)、施餓鬼会、彼岸の墓参、藪入り(正月16日・7月16日)の習俗 — 『東都歳事記』ほか一次史料に記述があり、民俗学で広く扱われる ★★★ [A: 定説]
- 継承者不在による墓の維持困難と、墓じまい・永代供養・納骨堂・樹木葬の広がり — 各種報道・自治体資料で扱われるが、規模の推計には出典により幅がある ★★ [B: 現代資料・幅あり]
- イングランドの教区簿冊、19世紀ロンドンの教会墓地過密と郊外墓地への転換(1830年代の民営墓地群、1852年以降の埋葬法)、パリのカタコンブとペール・ラシェーズ墓地(1804年開設) — 近代ヨーロッパ都市史・葬送史の定説 ★★★ [A: 定説]
- 現在の日本の火葬率が99%を超えること — 厚生労働省の衛生行政報告例等による ★★★ [A: 公的統計]
- 韓国・中国における火葬への転換 — 各国統計により年次・定義が異なり、比率の数値には幅があるため本記事では具体的数値を挙げていない ★★ [B: 現代資料・幅あり]
- 中国・台湾の清明節、韓国の秋夕(チュソク)という祖先祭祀の年中行事 — 東アジア民俗学で広く知られる ★★★ [A: 定説]
- 本記事における「墓を持てなかった層は統計上いなかったことに近づく」という整理、および戒名の表示機能との対比 — 個々の事実はそれぞれ出典に基づくが、この対比と論の運びは本サイトによる再構成である ★ [F: 再構成]
本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月27日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。