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犬猫と小鳥生類憐みの令は、犬だけの話ではなかった

江戸の生き物と人の関係は、いまの「ペット」という言葉ではうまく捉えられない。猫は鼠を捕るために置かれたし、犬は誰のものでもなく町内のものだった。愛玩という感情はもちろんあったが、それは所有と分かちがたく結びついてはいない。そしてこの社会に、動物の保護を掲げる法令が出る。生類憐みの令——犬の話として語られてきたこの一連の触れは、実際には犬をはるかに超える範囲を対象にしていた。

歌川国芳の錦絵。さまざまな姿の猫が並んでいる
猫を描いた歌川国芳の錦絵。猫が愛玩の対象として繰り返し描かれること自体が、猫の立ち位置の変化を示している。もとは蚕や書物を鼠から守る実用の動物だったが、江戸の町では飼われ、名を付けられ、絵に描かれる存在になっていた。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

しくみ① 猫 — 鼠を捕るために置かれた獣

猫を飼う理由は、はっきりしていた。鼠である。

米も、書物も、蚕も、鼠に食われる。米を扱う商家、書物を持つ家、そして養蚕を行う農村にとって、鼠害は直接の損失だった。猫はその対策として置かれる。愛玩というより、生きた道具に近い扱いである。

そして重要なのが、猫が繋がれていなかったということだ。かつては猫を紐で繋いで飼う慣行があったが、慶長7年(1602)に京都で猫の綱を解いて放し飼いにするよう命じる触れが出されたと伝えられ、これが猫の放し飼いが一般化する契機として語られる(確度★★、触れの性格や実効性については史料の解釈に幅がある)。放されれば猫は勝手に鼠を追う。繋がないほうが役に立つのだから、これは合理的でもあった。

放し飼いの結果、猫は特定の家の所有物という性格を薄める。近所を歩き、複数の家で餌をもらい、どこの猫とも言い切れない状態が生まれる。現代の「地域猫」に近い状況が、そもそもの標準だったと言ってよい。

猫が足りない、あるいは飼えない場所では猫の絵が使われた。鼠除けの護符として猫を描いた絵を貼る習俗があり、上野国(現在の群馬県)の新田地方で領主の家系が描いたとされる猫絵は、養蚕地帯に広く求められた(確度★★)。実物の代わりに絵を貼るという発想は、猫の役割が実用に置かれていたことを裏返しに示している。

招き猫は、実はまだ新しい: 商売繁盛の招き猫が広く知られるようになるのは幕末から明治にかけてとされる。江戸時代の大半を通じて、猫は縁起物である前にまず鼠捕りだった。愛玩の対象として猫が広く可愛がられるようになるのは、鼠害の脅威が薄れ、都市の暮らしが変わっていく過程と重なる(確度★★)。

しくみ② 犬 — 誰のものでもなく、町内のものだった

江戸の犬は、家の中で飼われていない。町を歩き、路地に寝て、そこに住む人々から残飯をもらって生きていた。特定の飼い主を持たず、しかし野生でもない。町犬・村犬と呼ばれるこの状態が、当時の犬の標準的なあり方である。

誰のものでもないが、まったくの無主でもない。その町内・その村に属する犬として認識され、住人が緩やかに面倒を見る。番犬としての働きもあり、見慣れない者が入れば吠える。長屋の路地や町の木戸のまわりは、そうした犬の縄張りだった。

この「共有」の性質は、後で見る生類憐みの令を理解する鍵になる。飼い主がいないということは、責任を負う者もいないということである。犬が増えても、傷ついても、誰かが引き受ける仕組みがない。そこへ「犬を大切にせよ」という命令が下りたとき、責任は結局、犬がいる場所——つまり町——に落ちてくることになる。

なお、武家では鷹狩に用いる犬や、愛玩される小型犬(狆・ちん)が飼われた。狆は大名家や大奥で可愛がられた記録があり、これは現代的な意味でのペットに近い。犬に関しても、階層によってまったく異なる関係が並存していたことになる。

しくみ③ 生類憐みの令 — 犬だけの話ではなかった

五代将軍徳川綱吉の治世に出された一連の触れを、後世に生類憐みの令と総称する。単一の法令ではなく、貞享2年(1685)頃から綱吉の死(宝永6年〈1709〉)に至るまで、二十数年にわたって断続的に出され続けた膨大な数の触れの集合体である。

まず押さえるべきは、対象が犬に限られなかったことだ。

  • — 傷つけること、殺すことの禁止。飼い犬の登録に類する届出。犬の扱いに関する町方の責任。
  • 鳥・魚・貝・虫 — 生きた鳥や魚の売買・食用に関する制限。釣りや鳥刺し(鳥を捕る道具を用いた猟)の禁止。生きた魚介を食用に供することへの規制。虫を殺さぬようにという趣旨の触れも含まれる。
  • 馬・牛 — 病んだ馬や牛を捨てることの禁止。労役に対する過度な使役の戒め。
  • そして人間捨て子の禁止と保護、病人や旅先で倒れた者を放置しないこと、囚人の待遇に関する配慮。これらも同じ「生類を憐れむ」という枠の中で出されている。
ここが肝: 生類憐みの令のうち、後世に最も知られたのは犬に関する部分である。だが実際の触れの束を見れば、捨て子・病人・行き倒れの保護という、現代の福祉政策に連なる内容が確実に含まれている。「犬を人より大事にした悪法」という一言では、この法令の輪郭は捉えられない。もっとも、実際の運用が過酷で庶民に大きな負担を強いた面も同時に事実であり、どちらか一方に整理してしまうことが誤りだという点が要点である。

運用の負担は確かに重かった。犬をめぐる違反には厳しい処罰が科され、密告が奨励された面もあったと伝えられる。そして江戸市中で増えた犬の収容のため、中野などに大規模な犬の収容施設(御犬囲・おいぬかこい)が設けられた。元禄期の後半にあたる。その維持費用は町方に賦課され、犬のための負担が住民の生活を圧迫したことが記録されている。「共有物だった犬」に対する責任が、制度によって町人へ請求書として送られた形である。

これらの触れの大半は、綱吉の死の直後に廃止された。跡を継いだ六代将軍家宣が、綱吉の遺志に配慮しつつも生類憐みに関する諸令の多くを撤回したことが知られている。二十数年続いた政策が、代替わりでほぼ一挙に消えたことは、それが将軍個人の意向に強く依存していたことを示している。

しくみ④ 「犬公方」という評判は、いつ作られたか

綱吉には「犬公方(いぬくぼう)」という綽名がついている。犬を人より重んじた愚昧な将軍——という像である。だがこの像がどこまで同時代の評価で、どこからが後世の産物なのかは、区別して考える必要がある。

同時代に不満があったこと自体は疑いない。厳しい処罰、町方への費用負担、生業への制約。これらは実際に人々を苦しめた。批判の根拠は現実に存在した。

問題はその後である。江戸後期から明治にかけて、綱吉の治世は講談・実録本・随筆といった読み物の題材として繰り返し語られた。物語としては、極端な逸話ほど面白い。犬を傷つけただけで死罪になった、大名行列より犬が優先された——といった劇的な挿話が語り継がれるうちに、個別の事例が典型例として扱われ、悪政の像が輪郭を強めていったと考えられる。

近年の研究では、綱吉の政治について再評価の議論も行われている。生類憐みの令に含まれる捨て子保護や病人救済の側面、殺伐とした戦国以来の気風を転換しようとする意図、学問の奨励と文治政治への転換といった論点である。ただし、これは「実は名君だった」という単純な逆転を意味しない。厳罰と負担の実態は消えないし、再評価そのものにも議論がある。

本記事の立場は次のとおりである。①法令の対象は犬に限られず、人間の保護も含んでいた(確度★★★)。②実際の運用は厳しく、町方に重い負担を課した(確度★★★)。③「犬公方」という悪評は同時代の不満に根を持つが、後世の講談・読み物を通じて増幅・定型化された面がある(確度★★)。③については断定できる性質のものではなく、諸説がある。

手に小鳥をとまらせた女性と、鳥籠を持つ童女を描いた錦絵
手に小鳥を乗せる女性と鳥籠を持つ童女。鶯を飼って鳴き声を競わせる「鳴き合わせ」は、金魚や園芸と同じ、品定めして値をつける遊びだった。愛でることと、格付けすることは地続きである。画像: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

しくみ⑤ 鳴かせる、光らせる、泳がせる — 飼育の流行

実用でも共有でもない、純粋な楽しみとしての飼育も、江戸には豊かにあった。

鶯・目白・鶉うぐいす・めじろ・うずら/鳴き声を競う 小鳥を飼い、その鳴き声を鑑賞する。良い声で鳴くよう手本の鳥のそばで育てる「付け子」といった育成の技法があり、愛好者が集まって鳴き声を競う鳴き合わせの会も開かれた。籠そのものも凝った工芸品となり、鳥屋という商売が成立していた。
鈴虫・松虫・蛍すずむし・まつむし・ほたる/音と光を買う 夏になると虫売りが屋台を出し、虫籠に入れた鳴く虫を売った。買うのは虫そのものというよりである。蛍は光を買う商品で、蛍狩りは花見と並ぶ季節の行楽だった。季節を室内に持ち込む商売だったと言える。
金魚きんぎょ/舶来の高級品から夏の風物へ 後述。江戸のペット史でもっとも大きく価格が動いた生き物である。
その他亀・鶏・狆・鷹 縁起物としての亀、闘鶏や声を楽しむ鶏、大名家の狆、武家の鷹。階層ごとに、飼える生き物が違った

そして金魚である。金魚はもともと中国で作出された観賞魚で、日本には室町期に渡来したと伝えられる。江戸初期の段階ではきわめて高価な舶来の珍品で、大名や富裕層のものだった。

これが変わるのは、国内での養殖が広がってからである。享保期(18世紀前半)以降、各地で金魚の養殖が行われるようになり、供給が増えて価格が下がった。大和郡山(現在の奈良県)は近世から続く金魚の産地として知られ、江戸周辺でも養殖が行われた。

安くなれば、売り方が変わる。金魚売りが桶を担いで町を流し、夏の風物詩になった。ガラス製の金魚玉に入れて軒先に吊るす、鉢に入れて縁側で眺める——庶民が数十文程度で涼を買える娯楽になったのである(価格の水準は時期と品種で大きく異なり、一律には言えない。確度★★)。舶来の高級品が、百年ほどをかけて夏の日用品に降りてきた。これは江戸の物価と流通が生き物にまで及んだ、分かりやすい一例である。

江戸と今 — 「所有される動物」への移行

江戸と現代の最大の違いは、動物が誰かの所有物になったことである。

近代以降、狂犬病対策や公衆衛生の観点から、犬の登録・繋留・野犬の処分が制度化された。飼い主のいない犬という状態が法的に許されなくなり、町犬という存在は消える。猫も、屋内飼育が推奨されるようになり、放し飼いは減った。所有者を特定できることが、動物を飼う前提になったのである。

これは責任の所在を明確にした一方で、江戸的な緩やかな共有関係を失わせた。現在の「地域猫」の取り組みが難しさを抱えるのは、共有を前提としない制度の中で、共有的な関係を作り直そうとしているからだとも言える。

もう一つの変化は、飼育が産業になったことである。ペットフード、動物病院、保険、繁殖と販売。江戸にも鳥屋や金魚売りはいたが、規模がまったく違う。そして規模が大きくなるにつれ、繁殖業者の劣悪な飼育環境、安易な購入と遺棄、多頭飼育崩壊といった問題が生じた。生類憐みの令が扱おうとした「動物をどう扱うべきか」という問いは、まったく形を変えて現在も続いている。

ただし一点、江戸と現代で共通することがある。動物の保護を制度で強制すると、必ず誰かが費用を負担するということだ。元禄期には町方が犬小屋の費用を負担した。現在は税金と、動物愛護団体の寄付と、ボランティアの時間がそれを担っている。負担の分配をどう設計するかという問題は、三百年変わっていない。

同じころ、世界では — 動物保護法は、百年以上あとに来た

年代を並べると、生類憐みの令の位置づけが見えてくる。

イギリスで動物虐待を禁じる法律——家畜の虐待を禁じたいわゆるマーティン法(1822年)——が成立し、その二年後の1824年に動物虐待防止協会(後のRSPCA)が設立された。ヨーロッパで動物の保護が法として制度化されるのは、おおむねこの19世紀前半である。

生類憐みの令の開始は貞享2年(1685)頃。マーティン法より百三十年以上早い。動物の保護を国家が法令として命じた事例として、世界的に見てきわめて早い時期に属することは事実である。

ただし性格は違う。マーティン法は虐待の禁止という限定された目的を持ち、市民運動を背景に議会で成立した。生類憐みの令は将軍個人の意向に発し、仏教的な殺生戒の思想を背景に、犬から捨て子まで広範囲を包み込む形で出され、代替わりとともに消えた。早かったことと、続いたことは別である。この比較を「日本が先進的だった」という物語に回収するのは、法の性格の違いを無視することになる。

なお同時期のヨーロッパでも、貴族の愛玩犬、鳴鳥の飼育、観賞魚の池といった娯楽は盛んだった。楽しみとしての飼育は、どの社会でも豊かな層から始まり、価格が下がるにつれて広がる。金魚が舶来の珍品から夏の風物へ降りてきた経路は、その普遍的な形の一例である。

アジアのいま — 籠と鉢は現役である

鳥籠を提げて公園に集まり、鳥の声を聴かせ合う——中国の都市では、この光景がいまも見られる。鳴き声を競い、籠や餌入れの意匠を競う文化は、江戸の鳴き合わせときわめて近い。鑑賞の対象が姿ではなく音であるという点まで一致している。

虫を飼う文化も続いている。中国には闘蟋(とうしつ)——コオロギを戦わせる遊び——の長い伝統があり、良いコオロギには高値がつく。日本の鈴虫が「鳴かせる」方向へ、中国のコオロギが「戦わせる」方向へ発展した違いは興味深いが、小さな虫に価値を見出して売買する市場が成立したという点では同じである。

金魚は、いまもアジアが世界の主要な産地であり続けている。中国、そして東南アジアの養殖地から、観賞魚が世界へ出荷される。日本でも大和郡山をはじめとする産地が続いている。四百年前に舶来の珍品として渡ってきた魚が、いまは産業として各地に根を張っている。

他方で、野犬をめぐる問題は各地で深刻である。狂犬病の脅威、大量の処分、そして保護活動との摩擦。「町の犬」がまだ存在する社会が、それをどう扱うかという問いに直面しているという意味では、元禄期の江戸が向き合った問題と重なる部分がある。

広告と評判 — 声で売り、絵で広めた

生き物を売る商売の宣伝は、まず売り声だった。「金魚え〜、金魚」という金魚売りの声は、夏が来たことの告知そのものである。虫売りの屋台も同様で、棒手振りと同じく声と季節が結びついた広告だった。姿を見ずとも、声を聞けば何が来たか分かる。

そして錦絵が大きな役割を果たした。猫を擬人化した戯画、金魚を主題にした作品、鳥や虫を描いた花鳥画。これらは鑑賞物であると同時に、何を飼うのが粋かを伝える媒体でもあった。とりわけ猫を数多く描いた絵師の作品は人気を博し、猫という動物のイメージそのものを形づくった面がある。錦絵が化粧や着物の流行を運んだのと、まったく同じ経路である。

飼育の知識も出版に乗った。金魚の飼い方、小鳥の育て方、虫の飼養法を説いた本が刊行され、愛好家の裾野を広げた。貸本屋がこうした実用書を回して読ませたことも、流行の拡散に寄与している。飼育は、教わることのできる技術として流通していた。

そして評判が価格を作った。良い声で鳴く鶯、珍しい斑(ふ)の入った金魚、姿の良い狆。愛好家の間の評価が、そのまま値段になるという点で、これは投機的な側面も持っていた。珍しい品種に高値がつき、増やせるようになると値が崩れる——金魚がたどった道は、まさにこの循環である。

出典・確度

  1. 喜田川守貞『守貞謾稿』— 江戸・大坂の商売、季節の物売り(金魚売り・虫売りなど)に関する記述。国立国会図書館デジタルコレクションで原本公開 ★★★ [S: 一次史料]
  2. 生類憐みの令が単一の法令ではなく、貞享2年(1685)頃から徳川綱吉の死(宝永6年〈1709〉)まで断続的に出された多数の触れの総称であること — 幕政史の定説。関係する幕府法令の記録は国立公文書館に所蔵される ★★★ [A: 定説]
  3. 生類憐みの令の対象が犬に限られず、鳥・魚・貝・虫・馬牛、さらに捨て子の禁止と保護、病人・行き倒れの保護を含んでいたこと — 近世史研究の定説 ★★★ [A: 定説]
  4. 元禄期に中野などへ大規模な犬の収容施設が設けられ、その費用が町方に賦課されたこと — 定説。施設の規模や収容数の具体的な数値は史料により幅がある ★★ [B: 二次資料・数値に幅]
  5. 綱吉の死の直後、六代将軍家宣のもとで生類憐みに関する諸令の多くが撤回されたこと — 定説 ★★★ [A: 定説]
  6. 「犬公方」という悪評が、同時代の不満に根を持ちつつ、後世の講談・実録本・随筆を通じて増幅・定型化された面があること — 近年の綱吉政治の再評価の議論で指摘されるが、増幅の程度をどう見積もるかについては諸説がある。本記事では断定を避けた ★★ [B: 解釈・諸説あり]
  7. 猫が鼠害対策として飼われ、養蚕地帯や米・書物を扱う場で重視されたこと — 民俗・生活文化の定説。国立歴史民俗博物館の関連研究で扱われる ★★★ [A: 定説]
  8. 慶長7年(1602)に京都で猫の綱を解いて放し飼いにするよう命じる触れが出されたと伝えられること — 猫の飼育史でしばしば引かれるが、触れの性格・範囲・実効性の解釈には幅がある ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
  9. 鼠除けの護符として猫の絵が用いられ、上野国新田地方の猫絵が養蚕地帯に求められたこと — 民俗事例として知られる。流通範囲や成立時期には議論がある ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
  10. 招き猫が広く知られるようになるのが幕末から明治にかけてであること — 起源伝承は複数あり、成立時期の特定には諸説がある ★★ [B: 二次資料・諸説あり]
  11. 町犬・村犬という、特定の飼い主を持たず町内・村内で緩やかに扱われる犬の存在 — 近世史・民俗研究で広く指摘される ★★★ [A: 定説]
  12. 狆が大名家・大奥などで愛玩されたこと — 定説 ★★★ [A: 定説]
  13. 鶯などの小鳥の飼育、鳴き合わせの会、虫売りによる鳴く虫の販売 — 近世の遊芸・生業として広く知られる ★★★ [A: 定説]
  14. 金魚が中国で作出され日本へ渡来したこと、江戸初期には高価な珍品であり、享保期以降の国内養殖の広がりによって価格が下がって庶民の娯楽となったこと — 定説。渡来時期の特定と、価格の具体的な水準には史料による幅がある ★★ [B: 二次資料・数値に幅]
  15. 大和郡山が近世以来の金魚産地として知られること — 定説 ★★★ [A: 定説]
  16. イギリスのマーティン法(1822年)と動物虐待防止協会の設立(1824年) — 西洋法制史・動物保護史の定説 ★★★ [A: 定説]
  17. 中国における鳥籠文化および闘蟋(コオロギを戦わせる遊び)の伝統 — 民族誌・現代の報告で広く扱われる ★★ [B: 二次資料・現代の報告]
  18. 「生類憐みの令は犬を人より大事にした悪法だった」とする通説 — 運用が厳しく町方に重い負担を課した事実はあるが、法令の対象範囲と、捨て子・病人保護を含む内容を無視した要約である。本記事では両面を併記した [通説への留保]
  19. 綱吉政治の再評価をめぐる議論 — 近年の研究で提示されているが、再評価そのものにも異論があり、決着した見解ではない [C: 議論中]

本記事の記述は上記出典に基づく。最終確認日 2026年8月26日。 / 出典と確度の管理は資料庫の台帳に集約し、編集・出典ポリシーに基づいて更新する。

版 20260827 0207