江戸の消防を現代の感覚で想像すると、まず間違える。彼らは火を消しに行ったのではない。火の進む先の家を壊しに行ったのである。ポンプもホースもない時代、百万都市を守る唯一の方法がそれだった。
組しくみ — 破壊消防と、三層の消防組織
なぜ壊すのか。江戸の町家は木と紙と藁でできている。屋根は板葺きや茅葺き、壁は土壁、間仕切りは襖と障子。加えて家々は軒を接して建ち、冬から春にかけては乾いた北西風が吹く。ひとたび火がつけば、桶で汲む程度の水では追いつかない。そこで火元の風下にある建物を先回りして倒し、燃えるものを断つ。これを破壊消防という。だから火消しの主力は水を運ぶ人ではなく、家屋の構造を知り尽くし高所で働ける鳶職だった。
三層の組織。江戸の消防は、およそ次の三つが重なって成り立っていた。
- 定火消(じょうびけし) — 明暦の大火の翌年、万治元年(1658)に設けられた幕府直轄の常設消防。旗本が任じられ、屋敷に人員を常駐させた。主に江戸城とその周辺を守る。
- 大名火消 — 諸大名に課された消防の役。武家地や公儀の施設が対象になる。
- 町火消 — 享保5年(1720)、享保の改革のなかで町人地の消防として組織された。町奉行・大岡忠相が関与したことで知られる。江戸の町を区分し、いろは四十七文字を組の名としたことからいろは組と呼ばれた。
火の見櫓と纏。町のあちこちに火の見櫓が立ち、火を見つけると半鐘を打つ。打ち方で火事の遠近を伝えた。現場では各組が纏(まとい)を掲げ、屋根の上に立てて「ここから先へは行かせない」と示した。纏を立てた場所より風下を焼かせれば組の恥である。組同士の意地の張り合いは、しばしば喧嘩にもなった。
組しくみ② 都市の側の備え
消防組織と並んで重要だったのが、都市そのものを燃えにくく作り替える試みである。
- 火除地・広小路 — 延焼を止めるための空地と広い通り。明暦の大火の復興で本格的に導入され、上野広小路のように地名として今も残る。
- 土蔵造り — 厚い土壁で覆い、火が入る隙を塞ぐ。大切な帳面や商品は蔵に納めた。損料屋や商家にとって蔵の有無は死活問題だった。
- 瓦葺きの奨励 — 燃えやすい板葺き・茅葺きから瓦へ。ただし瓦は高価で、町人地に広まるには時間がかかった。
- 防火桶と用心 — 各戸に水を張った桶を置かせ、風の強い日の火の使用を制限する触れがたびたび出された。
それでも江戸は燃え続けた。明暦3年(1657)の明暦の大火は市街の大半を焼き、江戸城の天守までも失わせた。犠牲者数は史料により大きく異なり、確定していない(確度★★)。この大火の後、幕府は火除地の設置、両国橋の架橋、寺社や武家屋敷の郊外移転を進め、都市の形そのものを描き直した。江戸という都市は、火事のたびに作り直されてきたのである。
今江戸と今 — 消防団と、燃えない都市計画
町火消は明治以降、消防組を経て現在の消防団へと系譜がつながる。地域の住民が自分たちの町を守るという枠組みは、江戸の町単位の消防から続いている。
破壊消防そのものは放水技術の発達で主役を退いたが、考え方は生きている。現代の都市計画がいう延焼遮断帯——幅の広い道路や公園で市街地を区切り、火が広がらないようにする発想は、火除地と広小路の直系の子孫である。土蔵造りは建築基準法の防火構造へ、防火桶は消火器と防火水槽へ姿を変えた。
史同じころ、世界では — ロンドン大火と保険の誕生
明暦の大火の9年後、1666年にロンドンでも大火が起き、市街の大部分が焼けた。両都市はよく似た経験をしたが、その後の道は少し違う。
ロンドンでは大火の後、民間の火災保険会社が生まれ、保険会社が自前の消防隊を持つようになった。加入した建物には目印の銘板を掲げ、消防隊はその印のある家を優先して守ったという。一方の江戸は保険ではなく、公儀の組織と町の共同で対処する道を選んだ。損害を金銭で補償する仕組みより、燃えたら皆で建て直す仕組みが先に発達したのである。どちらが優れているという話ではなく、都市が危機にどう応えるかの型が違った。
亜アジアのいま — 密集市街地という共通課題
木造や簡易な建材の家屋が軒を接し、路地が狭く消防車が入れない——この構図は、いまも東南アジアの旧市街や密集地区が抱える課題である。バンコクやマニラの密集地では、一度火が出ると数十戸が一気に失われることがある。近代的な消防設備の有無以前に、都市の作りそのものが延焼を決めるという江戸の経験は、決して過去の話ではない。
報広告と評判 — 纏という看板、火事場という舞台
纏は実用の目印であると同時に、組のロゴマークだった。組ごとに意匠が異なり、揃いの半纏(はんてん)とともに強い帰属の印になる。火事場で纏を高く掲げる姿は錦絵に描かれ、火消しは町の英雄として人気を集めた。歌舞伎にも火消しを題材にした演目があり、鳶と町火消しの粋な姿は江戸っ子の理想像のひとつになっていく。
「火事と喧嘩は江戸の華」——この言葉は災害を美化しているようにも聞こえるが、俗諺として広く伝わったもので、出典を特定できる史料は確認できていない(確度★)。実際の火事は財産と命を奪う災厄であり、瓦版は焼失範囲と死者を伝える速報を刷り続けた。華やかな纏の裏に、毎回それだけの損失があったことは切り離せない。
出典・確度
- 内閣府 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1657 明暦の江戸大火』報告書— 大火の経過、被害、復興による都市改造 ★★★ [A: 公的機関]/台帳
fact.edo.meireki - 定火消の設置(1658)・町火消いろは組の成立(1720)・大岡忠相の関与 — 概説書・事典類で一致する定説 ★★★ [A: 定説]
- 明暦の大火の犠牲者数 — 史料により大きく異なり確定していない。本記事では具体的な数字を挙げない ★★ [諸説あり]
- いろは四十七組のうち一部の組名が差し替えられたとする話 — 広く語られるが一次史料は未確認 ★★ [B: 二次資料]
- 「火事と喧嘩は江戸の華」 — 俗諺。初出を特定できる史料は確認できていない ★ [通説]
- ロンドン大火(1666)後の火災保険と保険会社付属消防隊の成立 — 欧州保険史の定説 ★★★ [A: 定説]